「マラルメ・プロジェクト3」――《詩句の朗誦》について、基本的な幾つかの事項  

7月 01日, 2012年
カテゴリー : プロデューサー目線 

 二年前に、筑摩書房から『ステファヌ・マラルメ全集1』が刊行され、およそ四半世紀をかけた大部の5冊本として、この19世紀世紀末の夜の中に、燦然とシャンデリアの如き光芒を放っている巨匠の、全体像が、ともあれ、日本語で捉えられるようになった。もちろん、研究の進み具合や、翻訳分担者の適否の問題など、顕在化した問題は少なくないのだが、ともあれ、20世紀の「先駆的な」文学、思想、そして音楽を始めとする芸術の多分野に、世紀を超えた灯台のようにして聳える、ステファヌ・マラルメの「全体像」への接近は、一応果たされた。

 この『全集』の完成を機に、なにかマラルメに相応しい催しをしたらどうかという浅田彰大学院長の発議で、まずはマラルメの「詩篇」を、フランス語において肉声化し、坂本龍一氏がそれを聞いて、気に入られたならば、「音楽」の伴奏を付けて頂き、ダム・タイプの映像作家、高谷史郎氏にしかるべき映像をあしらって貰う、と言う方向で、作業は始まった。
 幸い、この「神をも畏れぬ」企画は、好評であり、もちろんそこには坂本龍一氏のライヴ演奏と言う、魅力的な誘いが大きく働いていたことは言うまでもないが、少なくとも「日本人にマラルメなんぞ読めるはずがない、しかもフランス語で!」という、拒絶反応は克服できたように思う。
 一年目の好評に勇気づけられたチームは、どうせやるなら、『イジチュール』か『賽の一振り』に挑戦しようと言うことになり、上記『全集1』では、わたしが『イジチュール』の翻訳・注解を担当して居るから、『プレイヤード叢書』新版の、ベルトラン・マルシャルの解読に従って、『《イジチュール》の夜』の台本を作った。後で述べる様に、マラルメは、舞台芸術の内でも「バレエ」を殊に愛したから、近年ご一緒することが多い白井剛・寺田みさこ両氏に加わって頂き、『イジチュール』と関係の深い詩篇の、フランス語と日本語の朗読を背景に、ソロやデュエットを踊って頂いた。そして、三年目の今年である。

 『《イジチュール》の夜へ――「エロディアード」「半獣神」から』という標題が意味しているものは、『イジチュール』の危機が読み解かれるべき「文脈」には、「エロディアード――舞台」と「半獣神幕間劇」による、マラルメの劇場進出の挫折が大きく響いていること、そして、更に言えば、『イジチュール』のテクスト空間においてすら、「演劇性」や「舞台」は、執拗に顔を出すのだから、1865年9月における、詩人の劇場進出の試みの挫折は、「エルべーノンの夜」の境界線に、やはり見えていなければならないだろう。これが、「ダブル・プロローグ」として冒頭に付した、今回の新しい「筋立て」である。

 ところで、舞台上演の差し迫ったことばかり書いて来て、一番肝心な、というか、基本的な前提となる作業について述べていなかった。フランス語韻文の「朗誦法」のことである。
 日本と違って、フランス文学の根幹は、17世紀の所謂「古典主義」の作家たち、ピエール・コルネイユ、モリエール、ジャン・ラシーヌに代表される「文学言語の洗練と高度化」であり、しかもそれがすべて、「劇作家」によって担われていたことである。コルネイユ、ラシーヌの「悲劇」は、全て「定型韻文」で書かれていたし、喜劇作家のモリエールは、散文の喜劇も書いたが、その代表作となる本格喜劇は、やはり定型韻文劇であった。

 それらの「韻文劇」の基本となる定型詩句は「アレクサンドラン」と呼ばれる「十二音節詩句」で、そこには「脚韻」の規則や一行の詩句の中央での「切れ目」を始めとする幾つもの規則があった。この詩形をもっとも見事に完成させたのは、悲劇作家ジャン・ラシーヌであり、古代悲劇に匹敵する高貴かつ残酷な詩句から、ほとんど日常散文に微細な変更を加えただけのようにも見える詩句まで、その「韻文戯曲」の台詞は、3世紀以上にわたって、フランス文学の最も揺るぎない規範であり、幾世紀もの詩人が、それに反発しつつも、一度は回帰せざるを得ないような「古典」であり続けた。
 「劇の言語」であるから、当然それらは、「劇場で発せられて」はじめてその効果を現実のものとする、と一応は言っておける。しかし、日本の伝統芸能から類推されるように、それらの詩句の「朗誦法」が、伝承されている訳ではない。「伝統を活かしつつ守る」ことを使命とする国立劇場コメディ=フランセーズにも、「コメディ=フランセーズ式の朗誦法」が「伝承」されている訳ではないのだ。
 わたしが、コメディ=フランセーズの舞台を、パリで最初に見たのは1956年のことだが、その時点から現在に至る56年間に、この「モリエールの家」における「朗誦法」は、何度も大きな変化を体験して居るか分からない程である。しかし、注意しなければいけないのは、それほど「詩句の肉声化」に変遷があっても、詩句そのものに手を付け、書き直したり、削除したりすることは、絶対にあり得ない。これは、ドーヴァー海峡の向こう側のシェークスピア劇等とは決定的な違いである。
 従って、戯曲に用いられる定型韻文の代表的形式、「アレクサンドラン詩句」にしても、その構造の捉え方は、原則として変わらないが、実際にそれを「音声化する」に際しての「偏差」は、時代により、あるいは役者により、最近では演出家によって、極めて肥大することも起きる。例えば、1950年代には、アレクサンドラン詩句を出来るだけ「心理的に」――ということは、「近代劇の心理主義に即して」――言うことが常識となったり、あるいはそれとは正反対に、1960年代末からは、アントワーヌ・ヴィテーズという、極めて「前衛的な」演出家の登場によって、アレクサンドラン詩句を、「心理主義的自然さ」などで言うことは「下の下」とされ、はっきり「距離を置いて聴かす」という方法が、ほとんど絶対的な力を以って、若い役者たちに、熱狂的に受け入れられてきた。
 19世紀には、まだ録音技術も装置もなかったから、たとえば、「黄金の声」とたたえられたサラ・ベルナールの「声」も、ラシーヌの『フェードル』の一節が残されているだけであって、そこから19世紀末の朗誦術を想像するのは難しい。ただ、両大戦間からは、レコード録音が実現され、第二次大戦後から現在に至る複製メディアの隆盛からは想像もつかないが、それでも、「著名な詩人が自作を朗読する録音」といったものは、聴くことが出来るようになってきた。

 個人的な経験で言えば、大きなショックを受けたのは、詩人のポール・ヴァレリーが自作の詩篇を朗読している記録を、初めて聴いたときである。
 あれは1958年のブリュッセル万博の「フランス館」において、フランスの「出版社」が設えた「ブース」で、クローデルやヴァレリーによる自作の朗読を聴いた時だった。通念的に言えば、ヴァレリーのような「知性が肉を背負っているような人」が、自作を読むならば淡々と、あるいは冷たく、それこそ「異化効果的な」朗読をするかと思うだろう。ところが、ガリマール社のブースから聞こえて来たヴァレリーの「海辺の墓地」は、サラ・ベルナールをして眼色ならしめるであろうと思われるような、俗っぽく言えば「かなり大袈裟な朗誦法」であった。

 ここでようやくマラルメに戻るのだが、言うまでもなくマラルメはヴァレリーの師であるし、ヴァレリーより、よほど絢爛豪華、かつ晦渋な詩句を書いた詩人なのだから、さしあたりサラ・ベルナールと同じレベルで想像してもよいのではないかと思う。そのマラルメが、晩年、「未来の群衆的祝祭演劇」のパラダイムを想定するに際して、「ワーグナーの神話的楽劇」、「象形文字としてのバレエ」、「カトリックのミサ聖祭とオルガン演奏会」といった柱と並べて、と言うか、それらに先立って、「優れた詩篇の朗誦パフォーマンス」を挙げていることを書いて置きたかったからである。そこで例として引いているのは、マラルメが尊敬する高踏派の詩人テオドール・ド・バンヴィルの作品であるが、当然、自作もそのような文脈を想定しつつ書いていたに違いない。自作の詩篇は、当然に「声に掛ける」テクストであり、「声に出して読む/それを聴く」といった「パフォーマンス」を前提としていたはずである。
 とすれば、「マラルメの詩篇の朗読パフォーマンス」を芯に据え、そこに「音楽」と「バレエ」と、更には同時代(ここでは21世紀だが)のテクノロジーの粋を集めた「仕掛け」とが加わる「多重的な舞台表象」を、今、ここで、作りだす事は、1世紀余の時空を隔てて、「ローマ街の師」の遺志を活かすに相応しい企てなのではあるまいか。
 少なくとも「マラルメ・プロジェクト」の参加者は、誰しもそのような思いを秘めて、それぞれの「言語」を磨いている。

渡邊守章
(舞台芸術研究センター所長・演出家)