はじめまして

4月 01日, 2014年
カテゴリー : プロデューサー目線 

4月1日に渡邊守章先生の後任として舞台芸術研究センタ-所長に就任しました。センタ-には、この4カ月ほど、主任研究員としてかかわってきましたので、右も左も分からないという状態ではありませんが、しかし新米であることに変わりはありません。このコ-ナ-では、プロデュ-サ-(制作責任者)としての立場から、春秋座とstudio21で催される公演等の紹介をしてゆくことになりますが、それは次回からにして、第1回の今回は、まずは自己紹介からはじめます。
私が専門としている能楽-能と狂言のことです-は、世間では、どうも演劇とは思われていないようです。それは能楽界も同様で、演者や研究者で、能楽が演劇だと意識している人はごく少数です。戦後の一時期には、「能は演劇か否か」という、思えば不思議なことが話題にもなりました。そんなことが話題になるのは、「能は演劇とは異なる何かである」という抜きがたい理解が一般的だったからで、その状況は残念ながら現在も変わっていません。そもそも、能や狂言が海外の「演劇」祭に参加し、文化庁の芸術祭の「演劇」部門に能や狂言が参加していることだけでも、答えは自明のはずです。個人的な例をあげるなら、私は現在、日本「演劇」学会の会長であり、4年前まで四半世紀近く勤務していたのは大阪大学の「演劇」学研究室でした。つまり、「能は演劇か否か」という設問自体が問題なわけで、演劇との関係を問題にするのなら、「能(あるいは狂言)はいかなる演劇なのか」ということでなくてはならないと思うのです。
能あるいは狂言はいかなる演劇なのか。それは、同じ伝統演劇である歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)がいかなる演劇なのか、いわゆる西洋近代劇はいかなる演劇なのか、アングラ劇を通過してきた現代劇はいかなる演劇なのか、また、ダンスや舞踊などの舞台芸術としての質を問うのと同じことです。それはおのずから、それらの「質」の違いという問題にもつながります。「能はいかなる演劇か」を考えることは、多彩な領域からなる舞台芸術を理解するについても有効なのです。
専門が能楽研究だと言うと、そのような環境で育ったと思われることもあるようですが、能の舞台にはじめて接したのは、何をやってもうまくゆかず、一念発起して国学院の文学部に学士編入で入学して、中世の日本文学を勉強するうち、能という世界があることを知りつつあった二十代も終わり頃のことです。能を面白いと思い、さらに感動するようになるのは、それからかなり後になります。私の研究上の恩人で、戦後の能楽研究を牽引した故表章先生は、学生時代にたまたま通りかかった神田の共立講堂ではじめて能を見たがまったく理解できず、それが能の研究に入るきっかけだったと、よく言われていました。能に感動して研究を志したのではなく、異物としての能に研究意欲をそそられたわけですが、私の場合もそれに近いところがあります。
私に与えられた仕事は、多岐にわたる舞台芸術のプロデュ-スですが、私の場合、いかなる分野であれ、たぶん無意識のうちに、「演劇としての能や狂言」の「質」と比較しつつ進めることになりそうです。

天野文雄
(舞台芸術研究センタ-所長)