「マラルメ・プロジェクト2――『イジチュール』の夜」のこと

7月 01日, 2011年
カテゴリー : プロデューサー目線 

昨年5月に、筑摩書房から『マラルメ全集1』が刊行されて、約四半世紀かかった5巻本の全集が完結した。『全集1』には、「全詩集」と哲学的未完の小話『イジチュール』、ならびに詩人最晩年の「植字法的詩篇」の冒険『賽の一投げ』が収められているが、編集委員の一人であった私は、『全詩集』中の白眉ともいうべき『半獣神の午後』および『イジチュール』の翻訳・注解を担当した。
 昨年は、この全集の完結を祝うという意味で、私が『エロディアード――舞台』と『半獣神の午後』をフランス語原文で読み、それを坂本龍一氏の音楽と、高谷史郎氏の映像が
マラルメの詩の宇宙的広がりを見事に暗示した。コーディネーターというかモデレーターとして、浅田彰氏が極めて積極的に動いてくださったことも成功の重要な要素であった。
 そもそもフランス語の詩を、日本人がフランス語で読む、などというのは、多くのフランス人にとっては「悪い冗談」程度にしか受け入れられないだろうというのは無理もない考えだろう。しかし、フランス古典主義悲劇の頂点に位置するラシーヌ悲劇を日本語にし、かつそれを演出してきた者としては、フランス語の「詩句の声」は、常に自分の体で聞いてきた。それは翻訳者の実践としては、ラシーヌの天才に及ぶべきもないが、日本語で「ラシーヌ悲劇の詩句」の等価物が、舞台に立ち上がることを目指している。
 その意味では、フランス語原典で読むほうが、逆説的に聞こえるかもしれないが、よほどリスクが少ない。もちろん、「朗誦法」というものが、日本の伝統演劇のようには、パフォーマンス・レベルで伝承されてはいないのだから、こちらの解釈に従って、選択肢は広い。
 ともあれ、そういう訳で、昨年は『半獣神の午後』と「エロディアード――舞台」の二編を読んだのだが、今年はその延長線上で、「未完の哲学的小話」であり、難解をもってなる『イジチュール』に挑むことにした。
 この哲学的小話は、1860年代後半に、当時、南仏の中学校の英語教師であったマラルメが、「半獣神」と「エロディアード」をコメディ=フランセーズで上演してもらおうという計画の挫折後、すでに悪化しつつあった神経症が狂気の境へ隣接し、「詩が書けない」状態が極限的様相を呈し始める。それを脱却するために、デカルトに倣って「虚構」によって思考する実験として――マラルメ自身の言葉によれば、「類似療法(オメオパティー)」の「毒ヲモッテ毒ヲ制ス」という手法にならって――書いたのが、この『イジチュール』である。
 ブランショからデリダに至る20世紀後半の「文学についての根源的問い」が、常に参照してきたテクストであるが、それは1925年に、マラルメの娘婿ボニオ博士が、遺稿から読み起こした版(1925年)が定本となっていたが、その読みに無理があることは人々が気づいていた。マラルメ没後100年を記念して新しくなった『プレイヤード叢書』の校訂者ベルトラン・マルシャルによる新しい「読み」によって、今回の『全集』版は訳されている。  
従来の理解とは大きく変わるところもあり、また言説の不確定性も、このような舞台パフォーマンスを可能にするように思えている。

渡邊守章
(舞台芸術研究センター プロデューサー・演出家)