ピアフとデートリヒ 二人を結びつけている絆…

4月 26日, 2014年
カテゴリー : 過去の公演 

皆様こんにちは。上田でございます。

さて私は現在、5月24日(土)開催加藤登紀子春秋座コンサートに向けて
この公演のキーパーソンである
エディット・ピアフとマレーネ・デートリヒ
の人生を少しばかり調べている最中です。
コンサートにお越しいただく前の予習と言いますか、少しでも皆様の参考になれば幸いでございます。

登紀子さんのインタビューでもピアフについて語ってくださっています。

登紀子さんのピアフへの想い、またこのコンサートにかけてらっしゃる熱意が伝わってくる内容ですので、ぜひぜひご覧ください!
インタビューはコチラ

エディット・ピアフは、現在でも世界中で愛されているフランスを代表するシャンソン歌手。
幼少期から町から町へ歌い歩き、20歳で高級クラブでデビューし、一夜にして大成功を勝ち取った。その人気はフランスに留まらず、世界中で大いに親しまれていました。
華やかな男性遍歴、殺人容疑や4度の交通事故、麻薬と酒に溺れ、波乱にみちた人生を送り、47歳の若さでこの世を去る。
『愛の讃歌』や『バラ色の人生』などの数々の大ヒット曲は、今尚歌い継がれている。

マレーネ・デートリヒは、ドイツ出身の女優・歌手。
ドイツから単身渡米し、ハリウッドで実力を開花させ、1936年アメリカ市民権を獲得。第二次世界大戦勃発後は前線慰問や反ナチ運動に参加し、戦後アメリカ市民最大の栄誉である“自由勲章”を授与される。
53年からは歌で世界各地をリサイタル巡回し新境地を開き、70年大阪万博と74年に2度目の来日コンサートを開催。1992年に91歳で死去。

退廃的な魅力と抜群の脚線美(“100万ドルの脚線美”と讃えられている)で世界中の男性を虜にし、細い眉のメイクや、燕尾服や飛行服、軍服姿といった男装ルックは、世界だけでなく日本の女性(モガたちがこぞってズボンをはいていたという)も大きな影響を与えました。

二人の出会いは、ピアフが初のアメリカ公演を実現させた1947年頃だと言われています。
デートリヒがピアフの歌を聞きにニューヨークへ来ていて、ピアフもまた戦時中にデートリヒの歌を聞いて大きな感動と感嘆を覚えていました。
出会う前からお互い魅かれ合い、アメリカで運命の出会いを果たします。

以後、ピアフの人生におけるキーポイントに必ずデートリヒが側にいます。

1949年ピアフの愛人マルセル・セルダンが飛行機事故で急逝したとき、事故の知らせを翌日ピアフに伝え、その夜ニューヨークのナイトクラブでショーに立ち会ったのもデートリヒでした。
デートリヒは自伝で、ショーで『愛の讃歌』を歌うピアフを見て
「彼女は悲しみの思いを歌に込めて、いつもよりもずっと上手に歌った。」
と書いています。

また、ピアフはデートリヒが贈ったエメラルドの小さな十字架を生涯大事に持っていました。
ピアフが歌手ジャック・ピルスとの挙式時、震える手でずっと握り締め、
(デートリヒはこの結婚式の立会人を引き受け、ドレスの着付けも手伝っていた。)
3度目の自動車事故に遭った時も、その十字架をずっと握っていた。
とピアフは自身の自伝に書いています。

ピアフとデートリヒの自伝や、他の文献を調べていても必ず二人のことがピックアップされています。
ピアフはデートリヒを尊敬し頼りにしていて、デートリヒもまたピアフを支え、尽くしてきた。お互い刺激しあいながらも、なくてはならない存在だったのがひしひしと伝わってきました。

コンサートで登紀子さんがどのようにこの二人を演じ、語り、歌うのか…
どうぞお楽しみに~!

上田