このごろ、人が「希望を持つ」ということについて考えます。

カテゴリー: 臨床美術士4・5級資格課程(科目等履修)
人間にとって根源的な意味での楽しさとはなにか、楽しいことの本質には何があるのかに目を向ける時、技術的な向上のためだけでなく、また気持ちの解放という効能だけでもない、生き方を支えるものとしての表現の在り方が見えてくるような気がします。

人はなぜ表現をするのでしょうか

私たちは社会の中で、何かが出来るということでその存在を評価されようとしています。何か役に立つことが出来る、それがその人の存在の証になっているわけです。およそすべての社会活動は何らかの意味でそのように人に何かが出来る事を求めています。ではだんだん出来ることが少なくなっていく人はどうなのでしょうか。社会には病気や事故のために体や脳の機能が制限されている人はたくさんいます。そういった人たちには、社会の中での存在意義というものはなくなってしまうのでしょうか。また、何かが出来ることが求められる社会の基準の中では、人より上手に描くことが出来なくなっていく人には、絵を描く意味などなくなってしまうのでしょうか。自分の表現をひとに見せる意味はなくなってしまうのでしょうか。
その問いの中には、人が表現をするという事にまつわる最も本質的な問題が隠されているように思います。私がそんなことを考えるようになったのも、臨床美術の活動を通して認知症の人やその家族の方々に接するようになったことがひとつのきっかけでした。
臨床美術はもともと認知症の予防や改善を目指すプログラムとして開発された、参加者に造形表現をしてもらうためのメソッドです。そこには描くことが苦手な人でも取り組みやすく、臆することなく表現できるよう工夫されたプログラムがあります。また、先生というのではないスタンスを持った臨床美術士が傍らに寄り添う事によって、どんなバックグラウンドを持った人でも楽しく表現が出来るようになっています。そういった場で私も臨床美術士のスタッフのひとりとして、様々な参加者と表現を通じて接してみると、その人の技術の有る無しに関わらず、表現したいという心の働きが人間にとってどれほど重要なものであるかに気付かされます。表現への意欲はその参加者を変えるばかりでなく、いきいきと表現をするその姿を目にすることで、参加者を取り巻く家族や隣人をも次第に変えていくことになります。臨床美術は何かの訓練をする場ではないので、表現をすることで参加者の病が劇的に治るとか、問題がすっかり解決するというような事を期待しているわけではないのですが、しかし、参加者がただひたすらに画面に向かって楽しく描いているその姿を見ると、表現をしようとすることがその人にとってどれほど大切なことであるのかが如実に伝わってきて、思わずはっとさせられます。

表現することは生きるということ

多くの子供たちにとって絵を描くというのは楽しい経験です。小さな子供に画材と紙を与えると自然に何か描き出します。子供たちにとって表現することと生きることは、まったく同じであるのかもしれません。子供たちの自由闊達に描く姿を見ていると、芸術と呼ばれる大人の社会の約束事でさえ、何だかちっぽけな堅苦しいものに思えてしまうくらいです。人間にとって根源的な意味での楽しさとはなにか、楽しいことの本質には何があるのかに目を向ける時、技術的な向上のためだけでなく、また気持ちの解放という効能だけでもない、生き方を支えるものとしての表現の在り方が見えてくるような気がします。近年美術館などでも見る事の多くなった障害者の描く作品はまさにそのようなものです。生きようとすることへの全人格的な表れを、そこに見る思いがするのです。子供であれ大人であれ、絵を描く楽しさとは、絵の中でいきいきと生きることが出来る楽しさであるのかもしれません。

表現することは希望を持つということ

「夜と霧」という本があります。この本の中には、アウシュビッツという極限の状況下で、希望とはどんなものか、希望を持つということが人間にとってどれほど意味のある事であったのかということのまぎれもない事実が書かれています。臨床美術の実施されている現場でも、毎日の生活の中に一筋の希望を持ちたいと強く願う人にたくさん出会います。一見平和な日本に生きている私たちのなかにも、希望を持つということが生きていくうえでどうしても必要な人はたくさんいるのです。臨床美術の活動の中にかぎらず、表現をすることが希望を持つことそのものである人にとっては、描くことは生きていくうえで何にも代えがたい大切なものになることでしょう。子供たちにとって描くことが「楽しく生きる」ということであるように、私たち大人にとってもまた表現をすることは楽しく生きること、そして時にそれは「希望を持つ」ということそのものにもなり得るのではないでしょうか。

column writer profile
秋山一郎 (あきやまいちろう)
通信教育部臨床美術士4・5級資格課程(科目等履修)
造形作家。京都造形芸術大学准教授。
北海道生まれ。1997年愛知県立芸術大学大学院研修科修了。個展、グループ展多数。