
岩国徴古館と3つの謎
岩国徴古館は太平洋戦争末期に完成した700㎡足らずの小さな博物館です。日本は戦時中、建築に資源を使う余裕はなく、公共建築でさえバラックのようなものしか建たなかったといいます。そのような中、地方のこととはいえ、民間(岩国藩主であった吉川家が設立した財団法人吉川報效会が施主)によって、しかも不要不急の最たるものといえそうな博物館が建てられたことは驚くべきことです。
しかし戦時下ですから、もちろん資材面での大きな制約がありましたし、様式面でも軍部や世情に配慮する必要があったでしょう。この小論は、そうした様々な困難について考察するとともに、それを知恵と工夫で克服し、今見ても洒落ていると思わせる見事な建築を完成させた設計者、佐藤武夫の思いにも考えを巡らせたものです。
私は、①竹筋コンクリートは使われているのか? ②「アサマタイル」は「鉱滓タイル」といえるのか? ③佐藤武夫はなぜこの建物について語らなかったのか? を「岩国徴古館 3つの謎」と考えています。この小論でも私なりの答えは提示しましたが、解明は道半ばです。
「岩国徴古館3つの謎」に挑戦してみませんか?
芸術学科 - アートライティングコース
長和 由美子【学科賞】
岩国徴古館-戦争が生んだ小さな博物館-
五連の木造アーチが美しい日本三名橋のひとつ錦帯橋の近くに、岩国徴古館という小さな博物館がある(1)。最後の岩国藩主の弟であった吉川重吉の遺志を汲み、吉川家が設立した財団法人吉川報效会により建てられたものである。設計者は早稲田大学の教授であった佐藤武夫(1899~1972)。旧制中学校時代を岩国で過ごしたという縁で白羽の矢が立ったのであろう(2)。
驚かされるのはそれが建てられた時期だ。まさに太平洋戦争まっただ中なのだ。建設が決まったのは開戦のちょうど1年前の昭和15年(1940)12月、吉川報效会の理事会においてである。この3か月前、日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟である日独伊三国同盟を締結した。昭和17年(1942)は太平洋戦争の転換期にあたる。6月のミッドウェー海戦を境にそれまで破竹の勢いだった日本軍が劣勢に転じるが、その4か月足らず後の9月27日、起工式が行われた。上棟式は昭和18年(1943)5月21日であるが、この月の末には藤田嗣治の戦争画でも知られるアッツ島玉砕が起きた。そして竣工は昭和20年(1945)3月10日(3)。前日夜間から明け方まで続いたB29の絨毯爆撃により10万人もの人が亡くなった東京大空襲のまさにその日である。竣工からほぼ5か月後の8月6日には広島に原爆が落とされ、その閃光は岩国でも見えたという。そして終戦前日の8月14日には500人を超える人が亡くなった岩国空襲があった。しかし岩国徴古館は爆弾で穴だらけになった岩国駅周辺から6キロメートル程度離れていたため、爆撃を受けずに終戦を迎えることができた。
このような状況の中で戦争の遂行に役立ちそうもない博物館が完成に至ったことは、地方のこととはいえ驚くべきことだ(4)。しかしながら戦争は岩国徴古館の建設にさまざまな影響を及ぼしている。それを吉川史料館に残された建築時の資料などから考察する。
まず資材面をみてみる。岩国徴古館は昭和17年(1942)4月16日、ブロック積木造として建築許可を受けたが、その後煉瓦積に変更された。建築許可を得た直後の4月18日、日本は初の本土空襲を受けた。吉川家岩国事務所の「日誌」にも「空襲警報あり」との記載がある。ブロックは浅間山の軽石や砂利からつくられた「アサマブロック」を想定していた(5)。変更理由を明記した資料は見つからなかったが、空襲の懸念もある戦時下、大量の構造材を遠方から輸送するより、近隣の広島でつくられている煉瓦を使用した方がよいと判断したのではないだろうか(6)。
外壁には「アサマタイル」が張られている。「アサマタイル」は「アサマブロック」のタイル版だ。現場監督の「執務日記」には、入荷したタイルについて「一見するに外面稍粗悪なる感あり」と書かれている。とはいえ「ぜいたくは敵だ」という時代、そんなことはいっていられなかったのだろう。後の「執務日記」の記事や請求書などから「アサマタイル」が予定どおり使用されたことが確認できる。ちなみに多くの文献に、岩国徴古館では鉄などを精錬する際に生じる不要成分を固めた「鉱滓タイル(ブロック)」を使用していると書かれているが、今回調べた限りでは「アサマタイル」を「鉱滓タイル(ブロック)」とするのは無理があると考える(7)。いずれにせよ不要物を利用した、今であればSDGsだと称揚されそうな建材であったことは間違いない。そして廃材利用のタイルがこの建物に独特な深い味わいを付加しているのだから何が幸いするか分からない。
この建物の資材でもうひとつ忘れてはならないものが「竹筋コンクリート」である。これについては以前から、使用説、不使用説があり真実は定かではない(8)。しかし近年、原良輔が「戦時下に建設された岩国徴古館の構造材料に関する研究」という論文を発表した(9)。これによるとレーダー探査により、外壁上の臥梁やエントランスホールの列柱のまぐさ部分で主筋に金属の反応、帯筋に木質の反応があったという。つまりこの建物の一部で、主筋である鉄筋を支える帯筋として竹筋が使われている可能性は大いにあるのだ。国の有形文化財に登録されているため壁面を壊して調べるわけにはいかないというが、現在保存に向けての動きもあるため、その過程で竹筋が見つかるかも知れない。鉄の多くが軍用に使われ苦肉の策の代用品だったとはいえ、竹筋が使われていることが明らかになれば岩国徴古館の存在意義は一層高まる。
次に建築様式面での戦争の影響についてみてみる。この建築の外観とエントランスホールは新古典主義的である。1937年(昭和12)、ミュンヘンに建てられたナチスドイツ好みの 「ドイツ芸術の家」のミニチュア版といった趣がなくもない。設計した佐藤はモダニズムの建築家であるが、このような安定感のある力強い外観にしたのは戦争に突き進む当時の世相に影響されたものだといえよう。
しかしエントランスホールまでの新古典主義的世界から一歩奥に入ると、そこにはモダニズムの世界が出現する。白い漆喰の壁面にスタイリッシュな螺旋階段。その横の壁に並んだ小窓はル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂を思い起こさせる。もっともロンシャンの礼拝堂は1955年(昭和30)の竣工なので、ロンシャンの礼拝堂が岩国徴古館を思い起こさせるというべきか。外観は軍部を意識したナチスドイツ風、しかし内部は一転、軟弱ともいわれかねないモダニズム。外側と内側の印象が全く違うのだ。
スタイリッシュなのは壁面や階段の意匠だけではない。エントランスホールや展示室に見られる天井の磨りガラスは濃い茶色の格子で縁取られており、戦時というイメージにそぐわない洗練されたものだ。瓦屋根の一部がガラス葺きで、そこから取り込んだ光を天井の磨りガラスを通して館内に導く仕組みだ。手の込んだ造作だが、戦時下で電力がひっ迫していた中、採光の必要から設置されたものだ。
この建物には今述べたように瓦屋根が架かっている。帝冠様式ともいえないが和洋折衷である。和洋折衷はモダニズムの建築家にとって許しがたいもののような気もするが、これは統制物資であった鉄の調達が困難だったためだと考えられる(10)。木の小屋組みに瓦屋根をのせれば鉄は必要ない。そもそも間近に立つと屋根は見えない。これは屋根が壁面より内側に架けられていることによる。建物から少し離れると屋根が見えるがそれでも造形的に違和感はない。
岩国徴古館は延べ床面積700平方メートルにも満たない小さな博物館であるが、物資が不足し軍部の意向にも気を配る必要があった戦時下、知恵と工夫を凝らして細部まで美を追求した見事な建築である(11)。しかし佐藤は意識的に岩国徴古館に触れることを避けていた節がある。文筆の才があり随筆集なども出しているにもかかわらず、これに触れた文章は見つけられなかった。いろいろなところで付近の街並みのこと、自らが関わった錦帯橋復元や岩国市役所建設のことを語っているが、そこでも岩国徴古館は出てこないのだ。自らが興した佐藤武夫設計事務所(現在の「佐藤総合計画」)に残した「佐藤武夫年譜(昭和44年11月現在)」の作品欄にも岩国徴古館はあがっていない(12)。同じ年に竣工した「東村山自宅」は掲載されているにもかかわらずだ。
佐藤にとって岩国徴古館は、戦時下という異常な状況の中で心ならずも生み出してしまった、自分の目指す建築とは違うものだったのかも知れない。しかしこの建物は戦争による制約によってかえってその輝きを増し、戦時中に建てられたことによって永く保存される栄誉にあずかるだろう。
この文を一旦書き終えた翌日、たまたま近くに行ったので岩国徴古館に立ち寄った。あいにく展示品入れ替えのため休館だったので、内部の様子を見ることはできなかった。そこで外観だけでもしっかり見ておこうと建物の背後にもまわってみた。その中央あたりには緩やかなカーブを描いた凸面があった。その壁面に小窓が整然と並んだ様は新古典主義とモダニズムの節度ある調和といった趣だった。
その時ふと考えた。佐藤は岩国徴古館を自分の理想とする建築ではないと考えたのではない。早稲田大学の教授でもあった佐藤は多くの教え子を戦地に送った。彼らは見知らぬ土地で死の恐怖や飢えと戦い、なかには建築家になることを夢見ながら戦場に散ったものもいただろう。そんな状況下にあって、自身は資材の不足などがあったにせよ、思う存分建築家としての仕事を享受していたことを彼らに対して申し訳なく思ったのではないか。そして贖罪の思いでこの宝箱のような作品を自ら封印したのではなかったかと。
註・参考文献
【註】
(1)岩国徴古館は博物館として建築されたが、完成後、陸軍燃料廠の治療所や図書館として利用され、本来の目的で利用され始めたのは昭和25年(1950)からである。翌年には岩国市に寄贈され、市立博物館岩国徴古館となり現在に至っている。
(2) 佐藤武夫は名古屋出身であったが、軍人であった父の転勤で、多感な旧制中学時代を岩国で過ごした。佐藤が通った旧制岩国中学校は後年岩国徴古館が建設される場所のすぐそばにあった。展示室の列柱は佐藤が通学路としていた錦帯橋を彷彿とさせる。
(3)吉川家岩国事務所の「日誌」では、昭和19年(1944)10月28日に「徴古館工事完了」の記載がある。佐藤の還暦祝いの記念に出版された佐藤武夫作品集刊行会編『佐藤武夫作品集』(相模書房)でも、竣工年を「1944」としている。現場監督の「執務日記」では、昭和19年(1944)10月28日、「橋守(木工下請人)平中(左官下請人)両名を招致し残務工事の説明を聞く」(翻刻)とあり、昭和20年(1945)3月10日、「長谷川(施工者である池田組の社員)君に対し竣功検定書を提示す」(翻刻)と書かれている。建築工事は昭和19年(1944)10月28日にほぼ終わったが、建具や外構にかかる工事は続き、それが終わった昭和20年(1945)3月10日竣工確認を行い、竣工日としたのであろう。
(4)石田潤一郎・米山勇監修『写真と歴史でたどる日本近代建築大観第3巻激動する世界と建築の転換』国書刊行会、2021年、p.247。「近代建築関連年表③(1923~1962年)」に掲載された、昭和18年(1943)以降終戦までの間に竣工した建物は岩国徴古館しかない。
(5)昭和17年(1942)2月28日付け山口県知事あて「建築用物資需要申告書」に「アサマブロック積」との記載がある。
(6)『コンクリート パンフレット第39号 軽量コンクリート』日本ポルトランドセメント同業会、1941年、p.26の「アサマブロック・アサマタイル」の項に「固めてブロック積として壁体構造材に使用すれば、金網、フェルト等は不要になり、少量のセメントを用いれば足りる」(翻刻)とある。当初、煉瓦積に変更した理由は、ブロックであれば施工に鉄が必要だからではないかと考えたが、「アサマブロック」はセメントのみで施工できるためそれが理由ではないと判断した。
昭和17年(1942)4月26日付けの吉川家岩国事務所「再調査報告書」に、赤煉瓦の生産地である広島県能美島から今津までは和船、その後は道がよいので運搬は容易というような記載がある。一方、前出の『コンクリート パンフレット第39号 軽量コンクリート』p.26によると、「アサマブロック」は東京市板橋区下石神井で製造されていたという。
なお、建築時の資料では「アサマ」「浅間」いずれの表記もあるが、便宜上「アサマ」に統一した。
(7)前出の『コンクリート パンフレット第39号 軽量コンクリート』、p.28に掲載されている「アサマタイル」の写真は岩国徴古館の外壁のタイルとよく似ている。その名称からしても「アサマタイル」は浅間山の軽石や砂利でつくったタイルとするのが妥当と考える。しかし、「アサマタイル」が広義の「鉱滓タイル」である可能性も否定できない。なお、外壁材を「鉱滓ブロック」とする文献もあるため、「鉱滓タイル(ブロック)」とした。
ちなみに田中孝・米山勇『ロマンティストたちの家 佐藤武夫と佐藤総合計画の半世紀』日刊建設通信新聞社、1997年のp.27に「浅間ブロック」について、「所定の型に火山砂利を入れ、それに、モルタルのトロを流してプレスし、天日で乾かせばそれで終わりという単純な工程で、軽量耐火のブロックができ上る」とある。ただしこれは戦後の話である。しかも「浅間ブロック」の製造会社が不渡りを出したことで連帯保証人をしていた佐藤が多額の負債を負うことになり、そのことが昭和26年(1951)、早稲田を去ることになった理由のひとつだったという。製造会社の常務は岸本亀治という佐藤の教え子(早稲田工手学校)だったとあるが、前出、『コンクリート パンフレット第39号 軽量コンクリート』のp.26にも、「アサマブロック・アサマタイル」の製造者として岸本という名が出てくる。
(8)地元でも「竹筋コンクリート説」はそれほど知られていない。地元のことに詳しい70代前後の4人に聞いたところ3人は知らないとのことだったし、1人も聞いたことがあるという程度だった。建築から80年近い年月が過ぎているため、当時の工事関係者に話を聞くことも難しい。竹筋を使ったという話が地元に伝わらなかった理由として、昔の木造建築では泥壁の土台は竹を組んだものであったため、鉄筋に竹を巻いても特殊な施工だとの認識がなかったのかも知れない。
岩国徴古館によると、この建物の耐震診断は簡易なものしか行われておらず、鉄筋の有無などは確認されていないとのことだった。
ちなみに昭和16年(1941)、『竹筋コンクリート』(山海堂出版部)という学術書を上梓した河村恊は山口県大島郡の出身である。河村は山口県土木部河港課にこの本を寄贈している。河村は佐藤にもこの書籍を献呈したかも知れない。
(9)原良輔「戦時下に建設された岩国徴古館の構造材料に関する研究」、『日本建築学会大会学術講演梗概集』日本建築学会、2019年、p.33~p.34。
(10)昭和17年(1942)4月26日付け吉川家岩国事務所「再調査報告書」には、「鉄類は殊に僅少の数量にあらざれば承認出来難しとの県の内意を聞き取りたる次第なり」(翻刻)との記載がある。
(11)前出の『佐藤武夫作品集』に岸田日出刀が寄稿しているが、そこに「佐藤さんの復原指導で立派に出来上った岩国の錦帯橋を見にいったとき、橋を渡ったところの公園につつましやかに立つ徴古館を訪れて、落付いたいい建築だなあと感心してあとで聞いたら佐藤さんの作だった」と書いている。同じくジス・イズ・ジャパン編集長の斎藤寅郎も「このあいだ岩国に行って佐藤さんが手がけた岩国の市庁舎や再建の指導をした錦帯橋を見てから、それとは気付かずに付近の岩国徴古館を見せて貰った。帰って来てからこれも佐藤さんの戦時中の作品だと聞いて驚いた。私はこの純メーソンリー造りの徴古館の建築が好きである」と綴っている。ここからも、後述する、佐藤は岩国徴古館が自分の作品であることを隠そうとしていたのではないかという疑念が増す。しかし佐藤の思いとは裏腹に、岩国徴古館は今でも近代建築を扱った書籍にはよく取り上げられている。
(12)戦時中にナチスドイツ的と見えなくもない建物を建てたことで戦争責任を問われるのを恐れたとする向きもあるかもしれないが、それならば岩国徴古館ではなく昭和14年(1939)の「忠霊塔案」の方が軍国主義的だろう。「忠霊塔案」は競技設計に応募したもので、しかも落選したにもかかわらず「年譜」に作品として堂々と掲載しているのだ。
【参考文献】
・吉川家岩国事務所「日誌」昭和15年1月1日~昭和20年8月15日、吉川史料館蔵。
・竹中七輔(現場監督)「執務日記」昭和17年9月16日~昭和20年3月20日、吉川史料館蔵。
・岩国徴古館建築にかかる資料(図面・請求書・再調査報告書等)、吉川史料館蔵。
・「佐藤武夫年譜(昭和44年11月現在)」佐藤総合計画蔵。
・『コンクリート パンフレット第39号 軽量コンクリート』日本ポルトランドセメント同業会、1941年。
・河村恊『竹筋コンクリート』山海堂出版部、1942年。
・佐藤武夫『薔薇窓』相模書房、1957年。
・松村貞次郎『日本建築技術史』地人書館、1959年。
・佐藤武夫作品集刊行会編『佐藤武夫作品集』相模書房、1963年。
・佐藤武夫『火燈窓』相模書房、1969年。
・岩国市編『岩国市史 下』岩国市、1971年。
・村松貞次郎「こころよわき建築家だった佐藤武夫」、『新建築』第47巻第6号、1972年。
・栗田勇監修『現代日本建築家全集 7佐藤武夫とその事務所』三一書房、1977年。
・松村貞次郎、近江栄、山口廣、長谷川堯+磯崎新、鈴木博之+藤森照信、堀勇良『日本近代建築史再考-虚構の崩壊-』新建築社、1977年。
・松村貞次郎『日本近代建築の歴史』日本放送出版協会、1977年。
・建築学大系編集委員会編『建築学大系37 建築学史・建築実務』彰国社、1978年。
・松葉一清『やまぐち建築ノート(防長紀行第六巻)』マツノ書店、1979年。
・藤森照信『昭和住宅物語』新建築社、1990年 藤森照信『建築探偵 神出鬼没』朝日新聞社、1990年。
・藤森照信『日本の近代建築(下)大正・昭和篇』岩波書店、1993年。
・井上章一『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日新聞社、1995年。
・田中孝・米山勇『ロマンティストたちの家 佐藤武夫と佐藤総合計画の半世紀』日刊建設通信新聞社、1997年。
・福田東亜「82岩国徴古館」山口県教育庁文化財保護課編集『山口県の近代化遺産 山口県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』山口県教育委員会、1998年。
・福田東亜「山口県の近代建築」山口県文化財愛護協会事務局編集『山口県文化財第29号』山口県文化財愛護協会、1998年。
・日本建築家協会企画・監修、都市建築編集事務所編集・制作『素顔の大建築家たち02』建築資料研究社、2001年。
・松岡智訓「戦時中に唯一開いた文化の華 岩国徴古館」宮田伊津美監修『図説 岩国・柳井の歴史』郷土出版社、2005年。
・米山勇「真の公共建築を保証するもの-佐藤武夫の出発点と到達点をめぐって」、『建築画報 佐藤総合計画60周年』313号、建築画報社、2005年。
・福田東亜「やまぐち近代建築探偵11 岩国徴古館」、『西日本新聞』2005年9月26日。
・米山勇監修『日本近代建築大全 西日本篇』講談社、2010年。
・田原直樹「残影 太平洋戦争開戦70年 第2部深まる戦時色 岩国徴古館」、『中国新聞』2011年4月12日。
・森下友晴『昭和戦後の西洋館 九州・山口・島根の〈現代レトロ建築〉』忘羊社、2015年。
・彰国社編『モダニスト再考[日本編] 建築の20世紀はここから始まった』彰国社、2017年。
・松岡智訓「岩国徴古館-戦時中に建てられた博物館-」山口県文化財愛護協会事務局編集『山口県文化財 第四十八号』山口県文化財愛護協会、2017年。
・日外アソシエーツ編集『日本全国歴史博物館事典』紀伊國屋書店、2018年。
・米山勇監修『世界がうらやむニッポンのモダニズム建築』地球丸、2018年。
・磯達雄(文)、宮沢洋(イラスト)『昭和モダン建築巡礼 完全版1945-64』日経アーキテクチュア、2019年。
・原良輔「戦時下に建設された岩国徴古館の構造材料に関する研究」、『日本建築学会大会学術講演梗概集』日本建築学会、2019年。
・リーフレット「市立岩国徴古館 施設のご案内」2019年9月作成。
・石田潤一郎・米山勇監修『写真と歴史でたどる日本近代建築大観第3巻激動する世界と建築の転換』国書刊行会、2021年。
・日埜直彦『日本近現代建築の歴史 明治維新から現代まで』講談社、2021年。