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 神戸・旧居留地の「シェパードビル(羊飼いのビル)」のアトリエで、ドレスのお直しをする主人公・容子。彼女が繕うドレスを通して「衣服の身体性」についての物語を書きたいと思った。
『羊飼いのビルはウェディングドレスの夢を見るか?』というタイトルは、フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』へのオマージュとなっている。映画「ブレードランナー」の原作でもあるこの小説は、逃亡したアンドロイド(レプリカント)を人間の捜査官が「処理」するという物語である。
 このタイトルに関しては、論文研究のときからさまざまな意見があったが、アンドロイドと人間の違いとは何なのか? という問いは、「人間の体の容れ物である衣服」と「身体」という、わたしがこの小説で描きたかったテーマにも少なからず接点があるようにも思い、このタイトルのままでいくことにした。
 わたしはこの小説で衣服を通して、記憶、時間、ジェンダー、共感性、身体、そして「居場所」について書き、考えてきた。
 さいしょから結末や内容を決めて書き始めたわけではなかったが、いま思えばこのタイトルが小説全体を導いてくれたような気がしている。

芸術学科 - 文芸コース

武智弘美【同窓会賞】

兵庫県

羊飼いのビルはウェディングドレスの夢を見るか?

≪要約≫
<作品のねらい>
 神戸・旧居留地にある古いビル(シェパードビル)のアトリエでドレスのお直しをする容子の物語をとおして「衣服の身体性」について考えたいと思った。
 シェパードビルそのものが容子にとって衣服のように大切な存在であったが、彼女はやがてそこを出ることになる。愛するものを失う喪失感を抱えながら、ドレスを繕うことで学び、成長し、そして再生していく主人公の姿を描いた。
 これはわたしの実際の仕事の体験をベースにして書いたものである。もちろんすべてがわたしの体験ではないのだが、もうひとりの自分に出会えたような気がしている。自分の体験をベースにしているため、「衣服の身体性」に関しては、最初からぼんやりとイメージをしていたことはあった。しかし小説を書くうちに考えがどんどん変化してきて、それによって悩みや迷いが出てきた時期もあった。「衣服の身体性」とは何なのか、書いているうちに自分でもわからなくなってきた。しかし、「答えはひとつではない」ということに気づき、小説を書きながらひとつひとつ答えを探していく過程は、まるでじぶん探しの旅のようで、とても素晴らしい体験だった。書くことをとおして、衣服の「時間」「心と体」「居場所」「残されたもの」「繋がること」について考えをめぐらせることができたのではないかと思っている

<作品の抜粋>
 新緑の季節をそこでもう一度過ごせなかったのは残念だったなと容子は思った。八年間を過ごしたアトリエを出たのは二月の終わり頃で、そのとき居留地の街は無彩色のまま、ケヤキの木も黙って凍えていた。
 容子は旧居留地の古いビルの三階で、ドレスの仕立てとお直しのアトリエをしていた。十二畳ほどのアトリエの古い上げ下げ窓はひとつだけが透明で、あとの三つは擦りガラスだった。おそらくこのビルが建てられた八十年前そのままの窓で、窓枠とガラスが固定されているのでヒビが入っていてもガラスが交換できなかったのだと、改装を担当した八田さんは言っていた。しかもまともに開く窓はたったのひとつしかなかった。開けたら通り沿いのケヤキ並木が見え、その向こうに商船ビルヂングの美しい建物も見えるのだが、開けるのは一苦労でコツも力もいる。開けたまま閉まらなくなって八田さんを呼びに行くこともあるので基本は閉めたままだった。作業の気分転換に外を見るときには、北側に一枚だけある透明な窓から外を見る。その唯一の窓からは、通りのケヤキの木がすぐ眼下に見えた。
 アトリエのある三階から窓の外を見ると、緑の上にいるような気持ちになった。春の始まりに灰白色の旧居留地に最初に色を取り戻してくれるのは、いつもそのケヤキたちの役割だった。もう二度と見ることはないのだ。いつだってそれが最後の時には、そうと気づかずにただぼんやりと過ごしてしまう。
 シェパードビルはやさしかった。そして容子のからだに合っている気がしていた。階段の段差は足にぴったりの高さだ。英国人技師が設計した建物なのに、どうして日本人の自分に高さが合うのか不思議でならなかった。木の手すりまで容子の手のひらにしっくりと温かくなじむ。ちょうどいいタイミングで踊り場があり、自然な呼吸のリズムで三階まで登りきれてしまう。容子の足はまだ階段の高さを覚えている。階段を登って、重い鉄の扉にかかった南京錠を開ける。ギイイという大きな音が暗がりに響く。その音を合図に、そこにあるものたちがスッと身構える気配がする。さっきまでその独自の言語でおしゃべりをしていたのかもしれない、赤いソファや、古めかしい額縁やシャンデリア、ヴィンテージの洋服、古いジュークボックスや花瓶たちが。
(中略) 
 そこを八田さんや高木さん、ヨリ子さんらの若い芸術家たちが借りて改装し、二階をカフェとアートギャラリーに、三階を共有アトリエにして運営しているのだ。ギャラリーはシェパードビルの名前にちなんで「羊飼いのギャラリー」と名付けられていた。階段を登って左側に古着屋さん、右側の扉を開けると薄暗い廊下があり、右手に事務所、一番奥の突き当たりが容子の借りているアトリエだ。扉を開けると、薄暗い廊下から真っ白な部屋にでる。隠れ家のような真っ白な部屋で、容子は真っ白なドレスをつくっている。

  • 京都芸術大学 通信教育部