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1300年頃にフランスで制作されたネウマ譜(グレゴリオ聖歌)写本を研究した。これまで関連性について明らかにされていなかった所蔵先の異なる断片について、フォルモロジーの手法を応用し、制作当初は同一写本として存在していたことの証明に成功した。

芸術学科 - 芸術学コース

長谷川 遥羽子【同窓会賞】

神奈川県

《中世フランス》ネウマ譜写本の研究―挿絵とネウマ譜がつなげる断片の関連性―


【要約】
 本論は、所蔵先の異なるネウマ譜写本の断片を、徹底的に比較検証することにより、それらが以前は一冊の写本の中で共に存在していたことを証明するものである。

 教会音楽(聖歌)の正確な伝承を目的として8世紀後半に誕生したネウマ譜は、より伝承しやすい形へと変化を繰り返しながら、13世紀頃には挿絵の描かれた華やかな装飾写本として、パリを中心に最盛期を迎えた。本論では、13世紀頃に北フランスで制作されたドミニコ会のネウマ譜写本の断片9葉と、同じく13世紀頃に制作され、制作地が「ドイツ?」となっている1葉、および制作地が「ドイツ・ケルン」となっている10cm四方に切り取られた断片を取り上げる。所蔵先と制作地は異なるものの、挿絵や記譜の特徴が酷似することから、制作地を含め、これらの関係性を検証すべきである。

 ネウマ譜写本は、記譜・挿絵共に、時代や地域由来の独特な個性が見受けられる。そして、同時代・同地域の写本は、一見、同一人物が制作したかのようにも見えるのだが、細部にまで目を向けたとき、それらの特徴は完全には一致していないことがほとんどである。図像は似ていても記譜の特徴が異なるものや、ラテン語の表記は似ているが音楽記号の特徴が異なるものなど、微妙な違いが存在するため、部分的な特徴を捉えるだけは、正確な検証とはならない。したがって、本論が対象とするネウマ譜が、以前は同写本内に収められていたことを明らかにするためには、図像・記譜・文字といった、1葉の隅々にまで目を向け、共通性を見出す必要がある。そこで、筆者は、周縁部に描かれた挿絵だけでなく、記譜についても、特徴や制作者の癖を探るべく、緻密な検証を行った。また、同一写本内において、典礼が重複することは考えにくいため、全ネウマ譜を現代譜に変換しながら聖歌の特定を行うとともに、ラテン語で書かれた歌詞やルーブリックも全て解読することにより、それぞれの葉が示す典礼、さらには、それぞれの聖歌を使用する祈りの時間帯にわたるまで明らかにすることに成功した。

 図像の検証において、挿絵に使用されている背景図柄を図解化したところ、対象の作品では26パターンのデザインが用いられ、それぞれの図柄には一定の共通性があることを見出した。さらに、描かれている人物の骨格バランスを検証するために、図形を用いて共通性を導き出したほか、モティーフの共通性を明らかにするためにデザインソフトも活用しながら検証を行った。

 本研究対象の作品には、イニシアル部のみに断裁された小さな断片が含まれる。故に、本研究で取り上げる全ての作品の関係性を明らかにするためには、各イニシアル部や楽譜1段のサイズ感など、細かな情報が必要不可欠である。そこで、大英図書館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に採寸を依頼し、複数の数値を入手したことにより、対象である全ての作品において酷似性を導き出すことができたのである。キュレーターの協力なしでは、本研究は結果を得ることができなかったと言っても過言ではない。

 以上のように、徹底的に1葉ずつ調べ上げ、さらには、同時代・同地域で制作された複数の他写本とも比較検証を行ったことにより、研究対象の作品がもつ共通性は偶発的なものではないということが証明できた。すなわち、本研究で対象としたネウマ譜写本は、制作当時は同一写本であったということであり、制作地が「ドイツ」となっていた写本に関しても「北フランス」と言い換えることができるのである。

 ネウマ譜写本は、装飾部分とネウマ譜部分を同一人物が手掛ける場合もあれば、分担して作業を行う場合がある。本論で対象とした写本が、どのような形態で制作されたのかについては、今回の研究では解明することはできなかった。しかし、今後も多くの断片にあたり、研究を深めることで、それらを解明できる可能性は大いにあると考える。また、ネウマ譜写本は、それぞれの宗派や教会ごとに、掲載する典礼や聖歌に多様な独自性を見せ、一冊一冊、内容が大きく異なる。本研究の対象写本は、制作当時はどのような一冊だったのであろうか。どのような典礼が採用され、どのような聖歌が抜粋されていたのであろうか。まだ見ぬ断片をつなぎ合わせたとき、制作当時の様子が明らかとなるであろう。

  • 京都芸術大学 通信教育部