卒業生紹介

京都芸術大学を卒業し、
活躍している先輩を紹介します。
卒業生インタビュー

仲西森奈さん

作家

ことばという小銭を、道端に落とす。
それを拾った誰かが、「ラッキー」と思う。
そうやって、人との“離れた接点”をつくっていきたい。

本は、ほっといてもらうための手段。

文章を書く、ということに興味をもったきっかけは?

仲西
もともと、特に書くことが好きだった訳ではなくて。単に、本を開くことが好きだったんです。

本を「読む」ではなく、「開く」?

仲西
人って、本を開いている人を見ると「読書してるんだな」と思って、そっとしておいてくれるじゃないですか。小さい頃からとにかく「ほっといてほしい」っていう気持ちが強くて(笑)。だから実は、「本が好きだから、小説が好きだから小説家になろう!」と思った訳ではないんですよね。

独特な本との関わり方ですね(笑)。

仲西
そうなんですよ。そこから、書くっていう行為は当然、本を読むこととセットになっているはずだろうと思い始めて。ということは、書くことを仕事にすれば、将来もずっとほっといてもらえそうだ、という結論に行き着いたんです。

ほっといてもらうことの重要度が、とにかく高い(笑)。

仲西
とはいえ中学を卒業するあたりまでは創作に対して消極的で、書くことと読むことがセットになっているような仕事ならなんでもいいとも思っていました。速記者とか、書店員でもいいなと思ったし、プログラマーもある意味コードを読んで書くよなとか。

かなり視点が幅広いですね。

仲西
ただ「ほっといてほしい」が動機なので、読むことはできても、書こう、とはなかなかならないですよね。作文とか読書感想文も、正直ずっと苦手した。

おお、意外です。

仲西
「書こう」というより「書けるかな」と初めて思ったのは、高校1年生のときです。

それはどういうきっかけで?

仲西
瀬川深という、その年に太宰治賞を取られてデビューした方が、自身のホームページ上に掌編小説をフリーダウンロードでアップされていたんです。それを読んで、生意気にも「あれ、これなら私にも書けるんじゃない?」と。

「いけるかも」と思ったんですね。

仲西
いい意味で勘違いしたというか。そこから1ヶ月半くらい、学校から帰ったら毎日リビングのデスクトップパソコンの前に座って、ゆっくりゆっくり2000字程度の小説を書きました。7割くらいは、「これなら私にも書けるんじゃない?」と思ったその掌編小説の枠組み丸パクりみたいな内容でしたけど(笑)。でも書けた。そこから、新しいものをどんどん書いていくようになりました。

脚本賞の受賞、悩める浪人時代。そして、偶然の出会い。

書いたものを、人に見せたりは?

仲西
小説を書いている、と数人の友達には話していましたし、たまに見せて「どうかな」と意見を貰ったりもしていました。高校3年間は若い国語教師がずっと担任だったんですけど、その教師にも一時期見せたりしていましたね。でもあるとき、トランスジェンダーを主人公にして書いた小説を読んだ教師から「なかにし、お前もしかして、コッチか……?」と、反らせた手を口元に添えるいわゆるオカマポーズつきで、でも心配そうな顔で訊かれて。「違いますよ〜笑」と否定したらなんかホッとしたような顔をしてきて、それからは見せてないです。そんな感じで過ごしていたら、高2の終わり頃、幼馴染から「映画を撮るから、脚本を書いてよ」と頼まれて。

小説とはまた違いますよね、脚本って。

仲西
そうなんですよ。でも小説を書くようになってしばらく経ったあたりから、「自分はなまなましい会話文を書くのが苦手らしい」と思い始めていたので。脚本って全部会話じゃないですか。これはいい練習になると思って、やってみることにしたんです。

映画ができあがってみて、どうでした?

仲西
脚本が完成したのが高2の春休み。そこから撮り始めて、編集も含めて制作が完全に終わったのが高3の夏の終わりだったので、その年の映画甲子園に出品したんですよ。そしたら、最優秀脚本賞に選ばれて。

初の脚本で、それはすごい。

仲西
けっこううれしかったですね。「ああ、自分が選んだ道は間違ってなかったのかも」と思ったりしました。

それで書くことを磨くために、芸大に行こうと?

仲西
いや、その時点では芸大という選択肢は見えていなくて。私、浪人してるんです。高3の夏いっぱいまで映画にかまけていて、映画甲子園の授賞式が秋ですから、もう受験無理だなって(笑)。

最優秀賞の代償は大きかったんですね……。

仲西
浪人時代は、最初は現役生のころから志望を変えず、とりあえず文学部かな、と思って勉強していました。

あ、文学部志望だったんですね。

仲西
でも、図書館に行けば知りたいことは学べるし、大学の講義だって、その気になればモグりで受ける方法はいろいろありそうだし。大学に入学してまで学ぶ意味ってあるの?と、悩んでもいました。

なるほど。京都芸術大学という選択肢はどこから?

仲西
勉強にも身が入らないし、自分自身のジェンダーアイデンティティにも向き合いきれないし、みたいな膿んだ気持ちがピークに達していた時期に、本当にたまたま、作家の福永信のWikipediaを見たんですよね。福永さんの小説がその頃ほんとうに大好きで。そしたら「京都造形芸術大学中退」とあって。「ほー、芸大出身なんだ」と驚きました。でもなんか、中退も含めて福永さんらしいかも、とも思った。そこで初めて、大学のWebサイトを覗いてみたんです。

本当に、偶然の出会いですね。

仲西
「えっ、文芸表現学科があるじゃん!」「もう、ここしかないのでは……!?」って思ったんですよね、そのとき。

おお、一気にモチベーションが。

仲西
当時暮らしていた実家は千葉にあって。私が突然「京都の芸術大学に行く!」「ここです!」と言い出したことに、両親は相当戸惑っていました。「やめとけ」って言われましたね。

どう説得したんですか?

仲西
京都に行く遠征費も、受験料も、引越し代も、大学に行くためにかかる初期費用は学費以外は自分がバイトして出す。だから挑戦させてくれ、と懇願して。

本気度が伝わったんですね。

仲西
たぶん、ちょっとおかしくなってましたね(笑)。学校案内を見ながら「ここに行くしかない!」って、泣いたりしてましたし(笑)。

関節を外され続けた、大学4年間。

期待がMAXまで高まった状態で入学して、どうでした?

仲西
単純に「小説を書いて生きていきたい」っていう夢や目標を、平熱で扱ってもらえることが嬉しかったですね。「すごーい!」って変に持ち上げられることも、「なんだそれ」って笑われることもない。

居場所がある感じというか。在学中は、どんな学生でした?

仲西
「マンデイプロジェクト」とか、「mymymy」とか、他学科、他学年とつながる取り組みに力を入れていたかなと思います。他大学の学生とも、広く仲良くしていました。

学科や学校を飛び出した活動に比重を置いていたんですね。

仲西
学科の同期はラノベやアニメへの興味を起点に入学した子が多くて、興味の方向性が少し違ったんです。でも結果から言うとそれが良かったと思っていて。外に外に出ていったことで、頭が相当柔らかくなった。関節を外され続けていた感じですね(笑)。

作家として、歌集も出されていますよね。

仲西
短歌を始めたきっかけは、歌人の永田淳さんの授業で。私は昔からへんに頑固なところがあって、教師や先生のような立場の人を「〇〇先生」って絶対に呼びたくなくて、呼ぶときは必ず「〇〇さん」って呼んでいたんですよ。それがなぜか永田さんに刺さったみたいで。

気に入られたんですね。

仲西
「あなただけが僕をさん付けで呼んでくれる」って(笑)。そんなことないやろうって当時も思いましたけど。この短歌賞の受賞作についてどう思う?とか、いろいろ気にかけてくださって。興味本位で賞に応募したりもしていました。永田さんや当時の学生が立ち上げた上終歌会には、大学卒業後しばらく参加していました。

先生に勧められて始めた短歌を、つくり続けている理由は?

仲西
短歌を継続して作るようになったのは、現実的、肉体的な背景もあって。卒業後は掛け持ちでバイトをして、タイで手術をするためのお金を貯めていたので、とにかく忙しくて、いつも疲れていて。長い文章を書くのも読むのも、しんどかったんですよね。でも短歌なら歌集も読めるし。1首単位で書いて、こまめに何度も直すことができるから、バイトの合間の移動時間や夜眠る前なんかにこつこつ書き溜めていました。

読者とはあくまで、離れてつながる。

そうしてできたのが、短歌集『起こさないでください』。

仲西
この本を刊行してくれた出版社さりげなくの代表とは、学生時代からの仲です。大学時代に培った縁に支えられて、自分の身の丈に合わないくらい面構えのいい本を作ってもらえて、作家として一応のスタートラインには立ちましたが、私は自分自身のことをすごく変則的な、あるいは良くも悪くも中途半端な作家だと思っています。

というと?

仲西
なにか新人賞を取ったわけでもなく、版元も『起こさないでください』が出版社としての最初の刊行物で、作家側も版元側も全員ひよこみたいな状態で作家として世に出てしまった訳ですから。パスポートを持たずに飛行機に乗っているような感じ。ずっとソワソワしています(笑)。

ソワソワ(笑)。どんなことが書くための原動力になっているんでしょう?

仲西
その問いに対する答えになるかわかりませんが。事前に送っていただいたこのインタビューの企画説明書に、大学の理念である「社会に役立つ人材の育成」を踏まえて、社会の中で「何を考え、作品・ものづくりをしているのか」を聞きたいって書いてあったんですよね。ほう、と思って。
一旦素直に、自分はなんのために書いてるんだろうって、考えてみたんですよ。
仲西
それで思ったのが、私の作品は道端の小銭みたいなものなんじゃないかな、と。

おお。それはどういう?

仲西
ポッケに小銭を入れて歩いていたら、ごくたまに、道端に落としちゃったりするじゃないですか。家に帰ったあとで、あるいは自販機でなにか買おうとしたときなんかに、小銭を落としてしまったことにあとから気づく。でもどこで落としたのかはわからない。推測はできるけど確定させることはできない。そして、わたしが小銭を落としてしまった道をいつかは誰かが通る。通行人のうち誰かはその小銭に気がついて、「あ、小銭だ。ラッキー」と拾って懐に入れたりする。あるいは、未来永劫気づかれずに道端に小銭が残り続ける可能性だってあるし、そもそもわたしのあとに誰も同じ道を通らないかもしれない。

大切なのは、すべてがウッカリと偶然で成り立っているところで。私が「この道に小銭を落としてあげるから、拾って!」って道行く人に迫ったらおかしいし、拾う側も拾う側で、「この道には小銭が落ちているかもしれない」とか普段から思って道を歩くわけではないですよね。あくまで偶然それが起こっている。離れているんだけど、ものすごく細い糸で、どこかつながっているといえばつながっている。そんな「同じ時代を生きながら、お互いがお互いをほっとける」状況を、作品を通してつくろうとしているような気がしています。

「ほっといてほしい」に戻ってきましたね。

仲西
どこまでいってもやっぱりそこが大事で。卒業後しばらく京都で過ごして、そのあと東京に転居して、少し前から金沢に住んでいるんですが、この街に住もうと決めたのも、いろいろと下調べをした結果、私をほっといてくれそうな土地だなと思ったからです(笑)。(※仲西・注)

つくりたいのは、「ホームページ」なのかも。

仲西さんの作品は、「歌集」「小説」とカテゴライズすることが難しいように思います。自由な作風は、どこから?

仲西
いろいろなことが起点になってはいますが、視点が広がったひとつのきっかけは、大学2年生のときに開いた個展かなと思います。

どんな展示だったんですか?

仲西
友人、知人、親戚に、「日時・服装・表情・一度に写る人数、その他もろもろすべて自由で証明写真を撮って、郵送か手渡しでわたしにください」と連絡をして、そうして集まった証明写真を額装し、証明写真ごとに「連絡してから手元に届くまで」のあれこれを小説として書いて冊子を作り、額装された証明写真と共に展示しました。展示が終わってから、当時授業でお世話になっていた情報デザイン学科の教授にアーカイブを見せたら、面白がってくれて。

いまはわからないですけど、当時の文芸表現学科生には、外に出て個展みたいな活動をする人ってあんまりいなくて。でも当時、個展に来てくださった方や、快く場所を貸してくださった喫茶店のマスター、他学科や他大学の同期や先輩なんかが面白がってくれたことで、「紙に文字を印刷して、本にまとめて、書店で流通させることだけがわたしのやりたい小説の形じゃないな」と思えたんですよね。別の回路が開いたというか。

その「別の回路」が、今の作品につながっていると。

仲西
今取り組んでいる作品では、短歌連作、日記体小説、コラム、Apple MusicやSpotifyのプレイリストデータを一冊の本に入れる予定で、

それはもう、絶対カテゴライズできないですね。

仲西
重箱の隅をつつくようですけど、わたしは自分の作品をあまり「自由」だとは思っていないんですよ。そして小説や短歌、あらゆる作品はそもそもすべてカテゴライズ不可能なものだとも思っています。「自由なものをつくろう」と思ったこともないし、なんというか、自分のなかに朧げながら目指すべき形があって、それに向かって手を動かしていくうちにある種必然的な地点に着地するだけであって、むしろ「自由」とは程遠い。
それと繋がっているような関係ないような話ですけど、最近気づいたんですよ、「自分はホームページをつくりたいだけなんじゃないか」って。

ホームページですか?

仲西
私が小学生の頃ってSNSもたしかまだ登場していないし、ブログもまだまだ発達していなかったから、インターネット上でなにかをするとなると、ホームページ、いわゆる個人サイトを開設するのが主流で。私自身、小6のときに、HTMLを使ってホームページを作ったんですよ。

わかります。私もその世代です。

仲西
それが私にとっては、すごく大切な体験になっていて。あの頃のホームページって、コラムのようなテキストや日記もあれば、いろんな人が書き込めるチャットや掲示板があったり、画像置き場があったりしたじゃないですか。それを今、自分は別の形で作ろうとしてるんじゃないか、とこのごろ思っていますね。

そうやって、いろんな形の小銭を落としていく。

仲西
現時点では、そういうことなのかなと。なんのため、だれのために書くのかって、そんなの自分自身のため以外にないと思うんですよね。自分と、あとはいろいろな意味、側面で、自分に似ている人、自分みたいな人のために書く。そうやって落とした、あるいは落としてしまった小銭が、めぐりめぐって、自分とは似ても似つかない誰かのためになることもある。かもしれない。その結果、私はずっと、ほっといてもらえる(笑)。

やっぱり、最後はそこに行き着かないと(笑)。貴重なお話、ありがとうございました!

 

  • (仲西・注)
    このインタビューは、2023年末に行われたものです。2024年1月1日、石川県の北端である能登半島では大きな地震がありました。この記事を読んでくださっている皆様が能登半島地震についてどれだけのことを知っているのかはわかりませんが(そして、被災されたあなたも、あなたも、あなたも、もしかしたらこの記事を読まれているかもしれない)、被害は甚大で、現在も様々な人が復旧・復興に尽力しています。わたしは作家仕事とはべつに、ささやかながらホテルで清掃業のアルバイトもしているのですが、1月からホテルは被災者の二次避難先になり、わたし自身も日々のアルバイトを通して、復旧・復興の末端の末端の末端……の末端、のような仕事に(ほんとうにささやかながら、ですが)従事しています。

    インタビューで語っている通り、わたしは金沢を「ほっといてくれそうな」土地だと思い、移り住み、これまで暮らしてきました。その気持ちはいまも変わらないとも言えるし、根底から変わってしまった、とも言えて、まだうまく言葉にすることができません。言葉にしていいものなのかどうかも考えあぐねています。それでもひとつだけ言えるのは、「わたしのことはほっといてくれていいけど、被災地のことはどうかほっとかないでほしい」ということです。

    能登半島の輪島市には、輪島塗の職人の間だけで一時期爆発的に流行った「段駄羅(だんだら)」という独自の詩型があります。2年前、石川の県立図書館でたまたまこの詩型のことを知って以来、わたしは断続的かつ個人的に、段駄羅を作ってきました。輪島市には、市民の書いた段駄羅が道の柱なんかに展示されている通りがあるそうです。

    七尾市には小説家・藤澤清造と西村賢太のお墓があります。寄り添うように並ぶふたりのお墓はとても愛されていて、すくなくない人々の心の拠り所になっているのだな、と初めて訪れたとき胸が熱くなったのをいまでも新鮮な気持ちで思い出すことができます。

    誤解を恐れずに、そして馴れ馴れしい部外者であることを自覚しつつ言うと、能登はたいへん面白い土地です。わたしが生きてきて、これまでさまざまな人やものを通じて感じてきたありとあらゆる面白さを、更新させたり思い出させてくれたり、復活させてくれたりした土地です。繰り返しになりますが、わたしのことはほっといてください、でも、能登のこと、北陸のこと、石川のことはどうか末長く、ほっとかないでください。

    随分と冗長な注になってしまいました。最後に、被災地の書店への寄付を募る旨書かれたニュース記事のURLを貼っておきます。

    https://www.bunkanews.jp/article/367161/


    被災地の一日も早い復旧と復興、そして被災者ひとりひとりへの継続的かつ長期的な心身のケアや公的支援が為されていくことを強く願っています。お読みいただきありがとうございました。

 

取材・記事|久岡 崇裕(株式会社parks)

 

卒業年度・学科
2016年
文芸表現学科 卒業
出身高校
東京都 共栄学園高校
プロフィール
短歌や小説が入り混じる、自由な作風が特徴。著書に『起こさないでください』『そのときどきで思い思いにアンカーを打つ。』『名付けたものどもを追う道筋を歩きながら、』等。音楽グループ□□□(クチロロ)契約社員、朗読バンド筆記体主宰などの顔も持つ。

作品

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単行本『名付けたものどもを追う道筋を歩きながら、』-2024/1/29 仲西森奈(著)

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