芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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南防波堤



 展覧会の搬出が一日早く終わり予定外の時間が出来たので、馴染みの画材屋でスケッチブックを買って久しぶりに一人で港に出かけた。故郷の小樽市は今や北海道有数の観光地だ。運河周辺には数多くの観光バスが並び、外国人観光客が今日もたくさん訪れている。
 だが観光スポットを一歩でも外れるとそこに観光客の姿は全くない。私の描きたい働く港の姿がそこにある。
 私が港のこの場所にイーゼルを立てていたのは30年以上も前、高校生の頃だ。風の強い埠頭沿いではよくキャンバスが飛んで、冬は凍りついた油絵具の蓋が回らなくなる。車で通りかかった高校の先生が差し入れをくれたり、かわいそうに思われたのか近くの交番にお茶に呼ばれたりした。雪影の青さを正確に捉えたくて、私は現場にこだわった。
 小樽はここ数年で目抜き通りに駐車場が増えた。歩いてみると明らかに昔より人通りが少ない。夜賑わっていた料理屋は空いていて、同級生とも子どもの少なさに話が及ぶ。30年前と同じ場所に座って見る港は倉庫の棟数が減って、停泊する貨物船の数もこころなしか少なく思えた。小樽はすっかり変わったのか。私はどうだろう。高校生の私と今の私。目の前には当時と同じく、冷たく荒い倉庫の鉄の扉と濁った海。潮の香り。うるさく耳に響くウミネコの声を聴きながら、眺めている私がむしろ眺め返されているような変な緊張感がある。
 私が描いているのは今の小樽港の肖像だ。だがそれは、変わったかどうかわからない私自身の肖像でもあるのだろう。今日は私自身のために港に来た。仕事で必要な訳でもなく、展示される事もない私の描く小樽港の肖像は、風景と私の中間にあってただ灯のようにその両方を照らすだけだ。波の音を聞いているといつも、私が去った後も何もなかったかのようにそれはずっと続いていくのだと感じられる。海にとって私は一瞬でしかない。
 小樽港の夕暮れは美しい。その美しさは昔もこれから先もずっと続くというのに、今日も私はその美しさを捉えられない。