芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
backnumber

ある日の散策


眼裏の雪


 暑い。京都の夏は一東北人にはこたえる。気休めにもならないが、このような時だから少し涼しげな話を。
 あの有名な冒頭ではないけれど、冬、北に向かう列車に乗ると、長いトンネルを抜けた先に一変した景色が待っている。新潟を超え更に日本海を眺めつつ北上すると、酒田という港街に辿り着く。私の生まれ故郷だ。
 酒田は北に出羽富士と称される鳥海山、東に出羽三山、西は日本海に面し、その間を最上川が流れる。広大な庄内平野の中に位置する自然豊かな場所。私の幼い頃の記憶としては、冬になれば常に白銀の世界に包まれ睫毛も凍るほどだった印象なのだが、近年はその雪深さにも年や時期によって大きくゆらぎがあるように感じられるのは気のせいだろうか。
 厳しい気候に変わりはないので地元の人たちには叱られてしまいそうではあるけれど、この地から離れて暫く経つうちに私の眼裏に焼きついたこの地の白さは年々その白さを増して、常であってほしいと思ってしまっているかもしれない。そのせいか、より白さを求めて帰省した際には山に分け入ることを楽しみにしている。埋まれば身動きしづらいくらいの新雪の上をスノーシュー(現代版「かんじき」の様なもの)を履いて散策すると、そこには私の期待に応えてくれる光景が広がっているのだ。
 家からさほど離れていない場所にある、全国的な名瀑に比べれば大きくもない滝も気に入っている場所のひとつ。普段であれば比較的滝の近くまで車でいけるこの場所も除雪などされていないから、冬場は周辺の山ごと閉ざされている。 夜が明けて間もない頃、斜面を上り下りして黒く冷えた木々の縦のストロークを抜ける。川沿いに出る。真っさらな白地に墨を流したような横のストローク。川を伝って開けた場所に出る。目の前に鎮座するのは全体が凍てついた氷瀑だ。大小様々な氷柱を纏って仄かに青光りしている。
 紙も薄氷が張ってきて、もう何を描いているのかすら判らなくなる頃。太陽がだいぶ高くなってきた。氷柱は崩れ出し、照明を落としたように瞬間的に青味が消えて、少し肌色がかった気さえする。終い時。またいいものが見れた。
 誰しも眼裏に焼きついて離れない光景というものがあると思う。その光景は特定の場所が断定できているかもしれないし、何となく朧げかもしれない。私にとって故郷の真っ白な光景はその一つであり、視界をリセットしてくれる原風景だ。ふとした瞬間に見え隠れして、絵を描く上では直接的ではなくとも、日常の中とりとめのない光景が琴線に触れた時のその彩りを一層映えさせてくれる下地になっているように思う。
 通信教育部の学生の指導にあたっていると、現在も住まうその土地土地の土着性というか、また私とは違った原風景の広がりが作品から色濃く感じられるような気がして面白い。
 京都は暑い。けれどもこの暑さを凌ぐために様々な文化がこの地では育まれてきたことを思うと、まんざらでもない暑さだ。ここも誰かにとっての原風景になっていることだろう。