芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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どこからかやってきてどこかに行ってしまう輪ゴムもまた、神秘的 な円環的存在である


輪になって


 幼稚園のころには、輪になって何かするというのが結構あったような気がする。踊りだったり、かごめかごめだったり。はっきり覚えていないが、先生も輪にいたように思う。
 学齢期になると、そういうのはだんだん減っていった。先生なりリーダーなりが前にいて、みんな前を向いて方眼状に並んでいるか、グループワークのために島状に並んでいるか、グループが戦うために対面向きに配置されるか、そんな並びが増えていったように思う。大人になればなおのことである。
 数年前「ドラムサークル」というのに参加した。何人もの人が思い思いの打楽器を持ち寄って、一緒に叩くのである。ジェンベあり、タンバリンあり、カホンあり。インストラクターも輪に入って、みんなでリズムを叩いていく。一定のリズムパターンとそのまわりをある程度自由に作っていく感じで叩いていく。すると不思議なことが起こる。太鼓の響きの間から、歌のようなものが聴こえてくるのである。
 これは超常現象でもなんでもなくて、多様な倍音の複雑な響き合いの中から、ある周波数が強調されて歌のようなものになって聴こえてくるのである。仏教の声明でも「別の声」が響きの中から聴こえてくることがあるが、それと同じである。ちゃんと理屈はあるのだが、この声がやってくると、やはり神秘的な感じに打たれる。
 最近、地域の盆踊り行事の復活イベントで演奏することがある。一昨年二十年ぶりに櫓が組まれた養成地区の盆踊り復活イベン トでのこと、日も暮れ演奏も踊りも熱を帯び始めたとき、「パンパン」という手拍子が輪の中で生まれ、広がっていった。かつてここで踊られていた固有の踊りの身体の記憶が、輪の中で誰からともなく蘇ったものだったのだ。
リ ズムと円環の無限性とぽっかりあいた中心は、人を合理を超えた「ここではないどこか」に繋ぐところがあるようだ。「場のデザイン」を行うものとして、このことは心に留めておきたいと思う。