芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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奥村土牛《鳴門》1959(昭和34)年紙本・彩色山種美術館


Iさんの作品と天上の絵


 Iさんは絵を始めてからまだ日が浅い作家であるが、初めて作品を見たとき、その柔らかな優しい雰囲気に心が溶けるような感覚を味わった。特別に変わった作品というのではないけれど、その絵の前に立つと全てを享受したくなる。この作品の前で言うことは何もない。見る人を、ただただ暖かく包み込んでくれる。まるで天上にいるような極上の気分になる。理屈では到底説明できない。上手下手とは無縁のもの、まさしく人そのものなのだと思う。作為的なところが全くないのだ。ただ自然から心に響くものだけを素直に享受して純粋に楽しんで描いている。柔らかく優しい色調なのに決して弱い絵ではない。じわじわと見る人の心に入り込んできてどっしりと根を下ろす。
と思ったとき、ふと、この心が溶けるような気持ちは山種美術館で初めて奥村土牛さんの作品と出会ったときの感覚と同じであることに気付いた。私は絵を始めて間もない頃だったので、作品はただただ美しく感じた。そして会場全体が静謡で清浄な空気に満ちていて、まるで天上にいるような気分になった。決して声高ではないけれど心の巾にしっかりと食い込んできたのを覚えている。
その後も士牛さんの作品に触れるたび、その正直な写実性と誠実で謙虚なお人柄がそのまま感じられる作風にますます魅了されていった。
この「鳴門」の制作過程では薄い胡粉を100回くらいも董ねられたことを知った時は感動と畏敬の念を抱いた。自分の制作において胡粉の薄さと回数にこだわっていた私は大いに鼓舞された。また、画壇にデビューしたものの、その後10年間は発表を控えて、ただひたすら写生に徹したことも尊敬して止まない。土牛さんの作品はいつも私の迷いの襟を正してくれる。もっと自分を信じなさいといわれているような気になる。これからも自分を信じて自然を師として土牛さんを私淑として進もうと思う。Iさんの作品がそれを私に気付かせてくれた。