芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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大津樫堂禅師 墨跡「夢」


「夢」大津櫪堂禅師


 手几にある「夢」の書は、父が遺した幾ばくかの墨跡の中のひとつである。私がこれを書かれた大津樫堂禅師にたった一度だけお目にかかったのは、十九歳の正月だった。
父は、四十歳頃から、禅に閃心を持ち、禅書を読みかじり、あちこちの禅寺の老師とお近づきになっては、禅問答気取りで質問を投げかけるという、もしかしたら相当迷惑な在家信者だったかもしれない。なかでも、当時、相国寺管長であった大津梶堂禅師の畢跡に心酔し、師の元に何度も足を連び、直接畢跡を頂戴しては、掛け幅に仕立てて自室の床の間に掛け、毎朝その前で座禅をすることを日課にしていた。
そんな折、何を思ったか、正月のまだ松の内が明けぬ頃、「礫堂禅師をお訪ねするが、お前もついてくるか」と父が言い出した。私は、相国寺の管長猊下にお目にかかるということの真の意味も分からぬまま晴れ着を着て、そのお座敷に上がらせていただいた。樫堂禅師は、朧々とした面宣ちでゆったりと父の話に応じておられたが、その時、
二人の尼僧がお越しになられた。どうやらどこかの尼寺の院主さまが新しく寺に入られた若い尼僧を連れてのご挨拶のようであったが、禅師は、若い尼僧に「お気張りなさい。」と眼光鋭く、低い声で一言だけ発せられた。正月気分の浮かれた世間の色を持ち込んでいる自分と、墨染の衣に包まれた禅の修道者の世界が、座敷の巾できっぱりと分れていた。そのあと、再び禅師は、またにこやかに私たち親了との会話を続けられた。
大津樫堂禅師は、明治三十年福岡で生まれ、八歳で寺に入り、二十一歳で陸軍のシベリア出征などを経て、二十四歳で相国寺の僧堂に入られた。清貧と厳峻で知られた禅僧であり、二度も相国寺管長をつとめられていた。そして私がお目にかかったその年昭和五十一年の三月に遷化された。身を横たえたような「夢」の字に、瓢々とした長閑さを感じながらも、筆の走り、筆の強さには、確かに師のあの時の面影が宿っている。墨跡、すみのあとは、四十年以上前のまさに一期一会を鮮やかに蘇らせてくれる。禅師、私も「気張ります」ので、どうか厳しさの向こうに、円なる夢を抱けますように。