芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
backnumber

アンスリウムと小菊


先生の花


 私のいけばなの先生の話をしようと思う︒先生との出会いは私の滑舌の悪さに起因する︒学生時代︑せっかく京都に来たのだからいけばなでも習おうと思い立ってある流派の本部に最寄りの教室を問い合わせた際、銀閣寺の近くでと伝えたのが金閣寺の近くと聞こえたようだ。そういう縁があって、一〇年以上わざわざ遠く離れた教室に通うことになる。
 そこで出逢った先生は、優しそうなおばあさんだった。男の弟子は私しかいなかったので、ずいぶん可愛がってもらった。若いころはかなり活躍されていたそうだが、既にすっかり落ち着いた雰囲気だった。世阿弥は「花」を経た「しおれ」と咲いた事のない「しめり」は違うと語ったが、まさに良い意味でしおれた感じの女性であった。先生はいつも教室の一番後ろに座って、お菓子を食べたり雑誌を読んだりしていた。その日の課題の作品を何とか生け終えると、「出来ました」と声をかける。そうすると、ゆっくりやって来て、少し困った顔をしてから手直ししてくれるのだ。先生の腕は確かであった。 先生の作品は流派のつきあいで大規模な花展に出されているものを幾度か見たが、目立った創意を用いない確実な技巧を示す作品が多かった。しかし、私が一番印象に残っているのはそのような作品ではなく、ときどき先生が教室で誰のためにでもなく花を生けている姿であった。ひとりで花と向き合う先生の後ろ姿は、なにか貴いものを見ているかのような錯覚さえした。茶の湯でも点てたお茶の味が目的でないのと同じく、いけばなもまた作品がその本質ではない。プロセス自体が目的であり、作品はその副産物にすぎないのだ。
 八〇歳を過ぎてもずっと元気でいらした先生も、先日ついにお亡くなりになった。先生の後ろ姿を言語化する力は、今の私にはまだない。人生の大半をいけばなに捧げた先生が何を残してくれたのか、これから考えたいと思う。