芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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ジョヴァンニ・ベッリー二 / サン・ザッカリーア教会祭壇画


道に迷ったときに


 自分の前世が何だったかと想像を膨らませるのは楽しいものだ。熱心な仏教徒でもなく、ましてや霊力などみじんもない私であるが、海を渡り、一人小さな島の細い路地を歩いていたりすると、突然ここを歩いたことがある!という想いに捕らわれることがある。誰にでもある既視体験であるが、そのつもりでその島を歩き回るには楽しい材料となる。私が生まれた?その小さな島は世界の島ヴェネチアであるから、顔の赤くなるような話だ。掲載写真はヴェネチア派の画家ジョヴァンニ・ベッリー二(1430〜1516)が晩年描いた、サン・ザッカリーア教会の祭壇画である。今から15年ほど前、私は自分の絵の進む道に途方に暮れていた。そんな時にロンドンのナショナルギャラリーでベッリーニの「元首ロレダン卿」の肖像画に出会ったのだ。小さな絵であったが、それは冴え冴えとした光彩を放ち、私の心がキリキリと痛んだ。この画家の描いた足跡を追って、以来私のヴェネチア詣でが始まったのだった。ある小説家の、小説が書けないときは人物の伝記を書くとよいという言葉があった。この言葉の裏側にはその人物をものにするための膨大な資料集めや、その人物の追体験をする覚悟のようなものがないと伝記は軽々しくは書けないものだという、つまり書く行為の厳しい忠告を示す言葉であったのだが、その頃の私はそんな深い考えも及ばず、ただただ救いの言葉に聞こえたのだ。こうしてベッリーニを訪ねてヴェネチアを中心にイタリアを巡った。この島に到着すると、いつも真っ先に出かけるのがこの写真の絵のあるサン・ザッカリーア教会である。夏場こそ夥しい観光客が行き来するが、秋が来て厳しい冬になるとこの辺りは人影もまばらである。この教会はファッサード
が美しくヴェネチア建築史の上でも第一級のものだが、そのシンプルな外観と違って中に入ると威圧的な空気に満ちている。その重厚な作りの影に、この不朽の名作はかなり暗い場所にあり絵の全体がよく見えないのである。が、祭壇の前に1分間?(3分)の明かりを灯す賽銭箱のようなものが置かれていて、そこにお金を入れるとあたりは煌煌と光に満ちてこの絵画が蘇るのである。チャリンと小銭を入れる時、わざわざヴェネチアに出かける意味があるなあと自然に笑みがこぼれる。ここは迷ったときの私の道しるべであり、ベッリーニの絵に出会える喜びが私の襟元を正してくれる。ちなみにこの教会の拝観は無料である。