芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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須田国太郎《秋晴れの疎水》1948 年


誤読の愉しみ


 随分くすんだ絵だと思った。《秋晴れの疎水》とあるが、秋の晴天の、あの抜けるような爽やかさや広がりが感じられない…。
 それは、京都国立近代美術館で二〇〇五年に開催された「須田国太郎展」の会場でのことだった。たとえば、わたしは兵庫県
立美術館が収蔵している須田の《工場地帯》という風景画が好きで、観る度にその見下ろす大地に雲の切れ間から射し込む陽光で
自分の頭や肩も熱くなったような心地がする程なのだが、そのような感興を覚えなかったのだ。
 どんな意図で須田先生はこのようなバルールで描かれたのだろう。勝手に先生を付けて呼ぶのも気が引ける話だが、その時そのままの言葉がわたしの頭の中に響いていた。
 そんな状態でしばらく観ているうちに、絵の上縁が気になり始めた。数ミリの幅で上縁左右一杯に何やら微妙な曲線の暗い塗り残しがある。ほんの少し紫みのある、ザラザラした画布の肌触りが感じられる塗り残しだ。
 そのうち、これはトタンの波板の軒先なんじゃないか、と思い始めた。画家は小屋の軒下にでもイーゼルを構えて疎水の光景を眺めているのだ。一旦そう見たら、不思議なことに、淡いベージュがかった空や微かに紫を帯びた水面がにわかに澄み切った広がりを持ち始めたのだった。
 わたしは弾むような興奮を覚えた。確かにこの絵と出会い、観たのだと思った。
 ところが会場を出て図録を見ても、図書館でいくつもの画集を確かめても、そんな塗り残しは存在しない。
 最初は、みんなが分かってなくて、画像を四角く整えるときにカットしてしまっているのだとさえ考えた。それから時が過ぎて、今ではわたしが勘違いしたのだと了解するようになった。きっと額縁の凹凸が絵の上縁に僅かな影を落としていたのだろう。
 それでも、と考える。
 おそらくあの絵の色彩が生み出す空間を理解するには、その勘違いも含めた時間の経過が必要だったのだろうと。あの時、確かに絵と出会い、わたしは観たのだと。