芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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ノースダコダ州立美術館のライトアンドシャドウ展に出品した作品のディテール


本当の…


 マロニエの根が嘔吐の原因であったように、あるものを見て何かに気付くということがある。今から四半世紀ほど前に中国に行った。まだ個人旅行が制限されている時代で、団体行動のバスには必ずガイドさんと公安の人が付き添っていた。まず上海に入り西安や重慶などを廻ったが、そのころの(本場の)中華料理は今ほど洗練されておらず、重たく、脂っこく、四川料理は本当に辛く、すぐにお腹をこわした。バスがホテルに着くと争って部屋のトイレに駆け込む、そのような旅行を続けていた。あらかた見学は済み、もう旅も終わりに近づいたころガイドさんが気を利かせ地元の市に立ち寄ってくれた。やはりその日のお昼に食べた食事でお腹の調子が悪くなり、一人バスに残り外をボーっと眺めていた。他の人達はめずらしさに飛び出して行き、それを見るでもなく眺めていた時、ある露店が目に飛び込んできた。その店はテントの代わりに灌木の上に布をかぶせ、その下の地面に商品を並べ、商いをしていた。精確に言うと飛び込んできたのは、そのテントにしていた布だ。日に晒され、雨に打たれ、ほつれたり、破れたりしている。繕っている部分もいくつか有ったと思う。相当長い年月使い続けてきたのだろう、白っぽくなった布の表面は、記憶のようなものまで立ちのぼってくる布だった。そのとき、初めてこれが本当の布だと思った。美しい精巧な布ではなく、むしろ粗く粗末な布だ。しかし布本来の何かがそこには表われていた。日本に帰ってからもその事が忘れられず、その布をもう一度見てみたいと思うようになった。そしてついには自分で作り出そうとした。その時の「本当の布」というテーマは長い年月、自分の求めるものになっていった。布を何十回も洗い、乾かし、粘土や石片でこすり、ぼろぼろにする。幾通りものもやり方で変質を促す。それが制作の手順になっていった。新しい布がどんどん変わっていき、それと共に何かが表われてくる。その何ものかが表われたとき、初めてあの時の布と並んだ気がした。