芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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能の世界


能に魅せられて


 十年ほど前の春になるだろうか。私は能を観るために、水道橋にある宝生能楽堂へ足を運んだ。その日の演目は、〈西行桜〉。〈西行桜〉は夜桜の華やかさをうたった演目で、桜の老木の持つ渋みと夜桜のもつ儚い寂しさが混在した名作である。 
桜の精の老人が、ものさびた舞を見せているときであった。私は不思議な感覚にとらわれた。客席の空気が、ふと動いたのだ。それは、頬にかすかに感じられるほどから、そよ風のようになり、ついには夜風となった。そして、幹のゴツゴツした一本の立派な桜の老木が、舞台で花びらを散らせていたのである。桜吹雪であった。それは非常に閑寂な世界にあり、私には地謡の謡う声も、笛や小鼓の囃子の音も聞こえなくなっ
た。無音が広がり、時は止まって、舞台はセピア色の静止画のようになった。そのなかで、花びらの淡い桃色だけがうっすらと浮かび上がり、揺れ動き、そして一人の老人が舞を舞っているのが見えた。―これは幻か―。
 もちろん、実際には風も桜吹雪も起きていない。だから、このとき起きたことを言い表すのは非常に難しい。でも思うに、おそらくは〈西行桜〉の世界が私の過去の経験と交錯したのではないか。切なくも儚い夜
桜の思い出が私にイマジネーションを与え、この日の舞台に桜吹雪を呼んだのではないか。そう思うのである。 
ロジカルな能力が重視される現代では、出来上がっている面白さをスピーディーに提供する遊びが求められる。能のように、時間をかけて自分の世界を創り上げる「遊び」は希少だろう。しかし、イマジネーションを介することで得られる喜びは、個人的な感覚であり、それだけに人間本来の創造力に立ち返るものだ。事実、このときの〈西行桜〉は、私のなかでかけがえのないものとなって今も生きている。
 
自分だけの舞台を味わいたい。そう思って、これからも私は能楽堂へ足を運ぶだろう。