芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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月夜の梅


梅花皓月


 梅の花が綻び始める季節ですが、梅を見ると決まって思い出す歌があります。「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」。『伊勢物語』の男が「梅の花ざかり」に「あばらなる板敷に月のかたぶくまでふせりて去年を思ひいでてよめる」歌です。去年までは其処に居た女を思い出しつつ、月影も季節もあの時と同じ、そして自分もあの時と同じ自分なのに…、と詠んだものです。この歌は『古今和歌集』に在原業平のものとして収められています。業平の歌は「その心あまりてことばたらず」と評されますが、この歌も「同じ」の中の決定的な「違い」に対する強く儚い想いが余韻を残して歌われています。花道に携わる者の一人として私は何時かこの段を「花」に表現したいと思っているのですが、未だに出来ていないのはその余情に追い付いていないからでしょう。
 梅の花盛りの月夜、其処にあったのは幸福ではなく悲哀でした。「悲哀のある所には聖地がある」と語ったのはオスカー・ワイルドですが、私はこの意識が花道の源流にも働いているように思います。花道の草創期にその思想を打ち立てた池坊専應は「うつくしき花をのみ賞」することを否定しました。彼が表現しようとしたのは「野山水邊をのづからなる姿」です。敢えて一言で言うなら、それは「無常」の哲理に他ならないでしょう。だからこそ専應は「飛花落葉のかぜの前」に「さとりの種」を得ることを促しました。
『伊勢物語』の男がそうであったように、わたしたちはこの世で出会った分だけ別れなければなりません。彼の悲哀は特殊にして普遍であり、それ故に美が宿っていると言えるでしょう。
 古来、美への昇華は一種の「救済」として働いてきました。T・S・エリオットの言う「珍奇さによる陳腐さの隠蔽」が氾濫する今日の「芸術」群の中で本物の作品に出会った時、わたしたちが覚えるのは郷愁に近い共感ではないでしょうか。何時かそのような「花」を生けられる日が来ることを願いつつ、今年も月下に梅を観賞したいと思います。