芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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湖面によみがえった世木林(手前)と宮村(奥)のひろがり


あかりがつなぐ記憶


 この写真、みなさんにはどのように見えるでしょう。夜空、暗い山々と、谷筋の集落のあかり…?半分当っていますが、半分外れています。このあかりは、実在する村のあかりではないからです。ダム湖に水没してしまっ村の家屋の位置を、光で正確に再現するというインスタレーションなのです。
 一九九八年からこの日吉ダムは稼働し、桂川の下流にあたる京都市の市民も治水、利水上の恩恵を受けていることになっています。しかしそこで七つもの村が消えたことは、ほとんど知られていません。そのことを光によって知覚可能にし、上下流の多くの人に見てもらおうというのがこの企画なのです。沈んだ村に住んでいた方は、湖面上に灯された
「あかり」を指差して、「ああ、あれが○○ちゃん家や、あれは盛林寺…」と堰を切ったように当時のことを話し出されました。まるで闇の向うに当時の風景が見えているようでした。そして居合わせた下流からの来訪者は、その風景の中に暮らしと人生があったのだという当たり前のことに、「具体的に」直面するのでした。
 「これはアートなの?」どうなのでしょう。この静謐で巨大なインスタレーションには「作家」はいません。強いて言えば実行委員会があるだけです。それでアートじゃないっていうんなら、それでも構わないよ、と私は思います。
 ただ、この機能のない「あかり」を灯すためだからこそ、ダム管理者、日頃ダムに批判的な市民グループ、学生たちといった、普段交わらない人たちがいろいろ発見しながら協働しました。そして上下流の川との関わりを異にする人々が、この風景をみる経験を共有していきました。この試みがいろんな境界を飛び越える形で、ひとびとに問いを与える場を作ったのは、間違いないと思っています。こういうものをアートなのだと言っても、それも構わないよ、と思うのです。 
「あかりがつなぐ記憶」は、今年の八月三日(土)、四日(日)で九回目を迎えます。千年続いた世木の村の幻の夜景を是非ご覧ください。南丹市日吉町日吉ダムのスプリングスひよしでお待ちしています。