芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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松林より


日常


 時間があれば散歩に出かける。ここ数年、近くの松林の決められたコースを数周するのが常だ。地面にはいつも松葉や松ぼっくりが落ちている。毎回目にする、枯れた松葉の赤茶色と、松ぼっくりや枯れ葉の灰色との対比は美しく、いつしか記憶に残り、描いてみることにした。写真に撮り、記憶と写真とを絡めながら、地面の一部を描き続けた。しかし、何かがうまくいかない。写真と実物の色や明度の違いは承知しているが、それだけではない。私の見ている松ぼっくりは、地面から浮き上がるように、コロコロとした確かな立体感があるのだが、描く松ぼっくりにも写真にもそれを感じない。確認のため散歩を繰り返す。立ち止まり、じっと目を固定して、改めて見てみると、写真よりは立体を感じるが、さほどではない。あれ? いつもは、パッと見ただけで立体を強く感じるのに…。いくつか原因が分かってきた。まず、実際に見る時には両眼視差が起きる。これは、よく知るところで、写真に立体を感じないのはこのせいだろう。さらに、歩きながら見ているので、目の位置が移動し、見ている地面の松ぼっくりの角度が変わる。様々な角度から見ることによって、立体感はかなり増す。しかし、それだけではなく、何かもっと確信めいた立体を私は見ている。少しして、それは、松ぼっくりに触れ、握り、また、投げて遊んだ時の手の感触が蘇り、その記憶が立体感を増幅させ見せていることに気がついた。誇張されたイメージを追っていたわけだ。私たちは、ものを見る時には、過去の記憶を重ね合わせ二重写しに見ている。また、意識されたものは、より強調して見てしまう。記憶や意識が、ありのままに見ることを妨げる。記憶を重ね合わせて、ものを見るわけだが、よほど意識しない限りは、現実よりも記憶が優先されるようだ。記憶は時に誇張されたり、思い込みによる歪んだイメージによって現実を見てしまう場合もあり、なんとも危ういと感じることがある。
 私たちは知っているものは改めて見直さない。意識したことはクローズアップされ強調してしまう。実際はどうなっているのかを見直すこと、微妙な違いを見極めるのは大変だが、それを行わないと先に進めない。自らの感覚器官を通して外界の新鮮な情報を獲得することを「自分の目で見る」といい、それによって生まれる思考があり、これらは人にとって芸術にとって何より大切だし、そこから大きな喜びを得ることができる。宿命なのかもしれないが、私達はいつの間にか感覚器官から遠のいた頭の中の一部分で世界をつくり上げ、その中だけで社会を形づくる方向へと向かっているようだ。しかし、それでは偏りが生じバランスが崩れ、いずれ美も感動も無くしてしまう。大切な情報は外界にあり、逃げずに見つけられるのを待っている。散歩は終わらない。