芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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人目を気にせず咲き誇る雑草たち(高野川にて)


隙間に咲く花


 私のもともとの出発点は、公園の設計であった。大学を出て実務に関わり出したころは、まだバブルの余韻が残っていて、公園のデザインも大きく変わりつつあった。土の部分は減り、平らかに仕上げられた広場にはストライプや格子などの幾何学的なパターンが描かれ出した。植栽もそれまでのもっさりした和風とは違った、幾何学的なリズムでなされるようになっていった。駆け出しの造園家だった私も、そうしたデザインをかっこいいと思っていた。
 子供ができて、近所のちいさな公園に遊びに行くようになった。そこは、だいぶ昔に作られた、デザインのデの字もないような公園だった。ただの平らな土地に、すべり台とブランコなどの遊具を置いただけの空き地だった。舗装もきちんとされず、草ぼうぼうである。ひどいものだと思った。
 ところが子供と通ううちに、あることに気づいた。ベンチに座っていると、目の前の雑草の原っぱに、タンポポやニワゼキショウの可憐な花が咲いている。違う日に行くと、違う場所でまた咲いている。この場所は生きて動いているのだ、そしてそれは間違いなく美しいものなのだ、ということに気がついたのだった。
 この美しさは、この公園の設計図には記述され得ない性質のものだ。そしてここをちゃんと設計して、舗装平面図を描いてしまったら、この生きた美しさは消失してしまう。これは、デザイナーと管理者の意識の隙間から入り込んできた「自然」なのだ。
 こういうものをどう考えたらいいのか。芸術もデザインも「人のわざ」である。そして人のわざを責任をもって極めようとすると、こういう制御できない自然は、普通排除されてしまう。しかしそれが入り込むことで生まれる、得難い瞬間というのは確かにある。
 新型コロナウイルスの流行によって、人々が共有する「場」が、具体的な空間からネット上に移動しつつあるように思う。この「場」に、勝手に咲く花はあるのだろうか。それを見つけていきたい。