芸術時間

芸術とは美術館の中にあるものだけではありません。実は我々の身近な生活空間にもいくつも潜んでいるものでして、この村の住人は常にそれを探求しています。ここでは本学教員がそれぞれ見つけた「芸術時間」をコラムにしてご紹介します。
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葉蘭の生花『挿華常磐草』


葉蘭


 いけばなの世界には、「いけばなは葉蘭に始まり、葉蘭に終わる」という言葉がある。葉蘭は常緑多年草で、一つ葉、広葉などの異名をもつ。これらの名があらわす通り、地面から直接一枚の大きな葉が生えており、料亭の庭などでもよく見かける。根元にとても地味な花が咲くが、これを観賞する人はほとんどいないだろう。いけばなの世界における「花」という言葉は、いわゆる花だけでなく、枝や葉、果実さえ含むが、葉蘭はまさに葉を観賞する「花」である。 画像にある葉蘭のいけばなを生けたのは、未生斎広甫という江戸時代末期の花道家である。少年時代は但馬国の庄屋で下働きをしていたが、未生流の祖未生斎一甫が旅の途中に同地を訪ねた際に、彼に挿花の才能を見出されて同行したと言われる。やがて一甫が隠居した後、「未生斎」の号を譲り受け未生流の二代目を継いだ。広甫は流盛を拡大し、嵯峨御所(大覚寺)の花務職という名誉ある地位に就くとともに「花道家元」を名乗っている。
 いけばなの作品図は室町時代から描かれており相当な数が現存しているが、この作品は私のお気に入りのひとつだ。これは生花様式の三才格と呼ばれる型で、通常は七本程度で生けるものである。場合によっては数生けといって数十本で生けることもある。ここではその数生けとは反対に、三本という天地人三才をあらわすミニマムの数で生けられている。葉蘭は一枚の葉の中に皮・肉・骨を備えているといわれ、その葉の表情をいかにバランスよく見せるかが腕の見せどころである。この作品は、花器への芸術的な留め方とも相まって、三枚の葉が驚くほど豊かで動的・音楽的な調和を示している。
 私の恩師である倉澤行洋は主著『芸道の哲学』のなかで、花道を含む芸道の世界では「やさし→冷え→枯れ」という階梯が見られると整理した。この「枯れ」は、単なる「枯れ」ではなく、最盛期を経た上での「枯れ」でなければならない。広甫の作品の中にも、たしかにソフトなものやクールなものがある。それらと比較すると、今回紹介したこの作品は、まさに華やかさを内包する「枯れ」の境地、「葉蘭に終わる」芸境である。