ひみつのアトリエ

この村に生息する本学教員は皆個性豊かな表現者であり研究者です。彼らにとって大切な「ひみつのアトリエ」を紹介します。普段なかなか見ることのできない先生方の素顔、意外な一面が見られるかもしれません。また、みなさんにとって何かしらのヒントが見つかるかもしれませんね。
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松生歩

日本画コース


 今のアトリエが約5代目のアトリエということになるでしょうか。学生時代は日本画の制作を大学でしていましたが、草稿までは自宅で描いていました。大阪の自宅には自分の部屋と言えるところがなく、座敷の4畳くらいのスペースにベニヤ板を敷いて150号大に貼り合わせた草稿紙を広げ、その上に座って写生をバラバラ広げながら草稿を描いていました。立ててみないと形の狂いがわからない時は草稿をベニヤ板ごと襖に立てかけて確認します。自分でポーズを取って人物画を描く時も、やはりその部屋で襖と戸口に合わせ鏡をして写生をしました。後ろ姿でも自分でモデルができていたので、その頃は体が柔らかかったのでしょうね。夜は絵を片付けて、眠るのもその部屋でした。
 卒業して結婚した時にはもう画家として活動していましたが、その頃もアトリエと言えるようなアトリエはありませんでした。主人がもともと住んでいた堺の公団住宅に二人で住まい、13畳のリビングが、二人分のアトリエと食堂と居間と倉庫をかねていました。食事の度に絵の道具を片付けなければなりませんでしたし、主人が見ているテレビの隣で大きな絵を立てかけて描くのが日常で、集中ができずにストレスがたまりました。学生の時から25年間、毎年グループ展のために最低でも100号のサイズで5枚程度の制作を続けていましたし、それに加えて個展がありましたから、瞬く間に二人のアトリエは私の絵で埋まってしまいました。
 結婚して6年目に待望の赤ちゃんを授かりましたが、世界で一人しか治った子がいないという血液の病気が見つかりました。出産の前から、この大学の前身である京都芸術短期大学に勤めることが決まっていたので、複雑な状況の中でしたが、娘の入院している病室で住宅情報誌をめくって転居先を探しました。娘の退院後(完治ではなかったのですが)間もなくに家族3人で京都にやって来て、岩倉の借家に住みました。古くて荒れた家でしたが、初めて自分だけのアトリエを持つことになりました。少し不便なところで、自分たちにしては家賃も高すぎ、自転車操業のような暮らしとはいえ、自然がいっぱいある中での幼い子供との暮らしは、たくさんの思い出と絵の着想を与えてくれました。
 借家の契約期限に伴い、京都の北区に引っ越してまた大きめの家を借りました。その時もかなり傷んだ家でしたが、岩倉よりは便利で、子供の通学には助かりました。引っ越しの度に、たくさんたまりすぎた絵の置きどころと、アトリエスペースがネックになって、なかなか家が見つかりません。その家もずいぶん探してやっと見つけた借家でしたが、2年暮らした時点で家主さんから「そろそろ出ていってくれる?」と言われた時には焦りました。ようやく荷物が片付いてやっと落ち着いて絵が描けるかというところでしたから。床が弓なりに傾いて、隙間風も吹き込む寒い家でしたが、何とか10年をそこで暮らして、さらにたくさん絵がたまり思い出もたまり、最期は集合住宅に建て直されるということで、追い出されるように転居となりました。
 1年以上かけても望むような借家が見つからなかったので、思い切って12年ほど前に家を建てました。とにかく資金がなかったので、「広い床と広い壁!他には何も望みません!限界まで安く!」と同僚の建築の先生にお願いして設計していただき、今の家が建ちました。壁紙さえもない、構造用合板むき出しの工場か倉庫のような家ではありますが、とにかく広くて暖かい…床がたわんでない…初めてと言っていい、居心地のいい家とアトリエです。しかし、せっかく大きな絵が描けるように準備したのに、仕事が目の回るように忙しく、介護にも追われて、この頃は絵の溜まるペースが遅くなっています。でも人に気を使う必要がない自分だけのスペースは本当に有難く、ここに入ると自分に戻れるような気がします。何とか頑張って、もっともっといい絵が生み出せるよう、アトリエにも活躍してもらいたいと願っています。