ひみつのアトリエ

この村に生息する本学教員は皆個性豊かな表現者であり研究者です。彼らにとって大切な「ひみつのアトリエ」を紹介します。普段なかなか見ることのできない先生方の素顔、意外な一面が見られるかもしれません。また、みなさんにとって何かしらのヒントが見つかるかもしれませんね。
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門崎敬一

文芸コース


 書斎のゆくえ

 父は活字中毒者で蔵書家だった。私にもしきりに読書を勧め、近所の書店「武田泉書房」では好きな本を“つけ”で買うことを許していた。私の勉強机は小学校から高校まで、父の書斎の片隅に置かれていたので、ずっと書物の背表紙に囲まれて勉強していた。だから書物とともに暮らすのが当たり前になって、大学卒業後の就職先も出版社ということになった。
 その出版社は百科事典が事業の柱になっているため、万巻の書物が溢れていた。自社ビルの地下2層分が図書室になっていて、蔵書数は「ちょっとした地方大学の図書館クラス」と司書の社員が自慢していたのを覚えている。新入社員の私が配属された編集部は、歴史・美術・文学・旅をテーマにする月刊雑誌を編集する部署だったので、あらゆるジャンルの書物が書棚を埋め尽くし、やがて私のデスク周辺も書物がうず高く積もった。
 さて、父は85歳で他界し 、母も後を追うように2年後に87歳で亡くなって、山形県酒田市の実家には大量の書物で埋まる書斎が残されることになった。2011年4月、空気の入れ替えをやろうと無人の実家を訪れ、玄関のドアを開けると、2階から階段を伝ってざーざーと音を立てて水が流れ落ちているではないか。東日本大地震がきっかけだったかは不明だが、2階の洗面台の水道管が破損していた。階下はほぼ2ヶ月かけて天井からの水を浴び続け、父の書斎の書物の7割がたが水を浴びた。やがて夏に向かって書物はふやけだして、書棚からも容易に引き出せなくなっていった。もはや古本屋にも売れず、仕方なくゴミとして出さなければならなかった。無事だった書物を段ボール箱20個ほどに詰めて、当時勤務していたこの大学の文芸表現学科に送った。学生たちに学内で古本市を開くように頼み、その売り上げは同人誌を作るなどの活動に使うように伝えた。父の書斎は、そしてもちろん実家もその年のうちに解体して、更地にした。
 ところで、書物の牙城ともいうべき出版社は、やがて百科事典の売行き不振と、1996年からの右肩下がりの出版不況で立ち行かなくなり、リストラを繰り返し、自社ビルを売却して、図書室も社屋を埋め尽くしていた書物もどこかにいってしまったようだ。私は1999年に退社したので、その書物の消滅ともいうべき事態は見ていない。
 私の職業と立場からすれば、アトリエとは書斎のことだろう。しかし、書物を溜め込んでいくことの怖さ、というか虚しさを知ったので、もう書斎は持たない。私の秘密のアトリエを強いてあげれば、群馬県の小さな村の、低い山の際に建つ小屋にしつらえたデッキ。樹間から川が見えるそのデッキに折りたたみ椅子と手製のテーブルを置き、その時読んでいる書物を1冊用意する。それが今の私のアトリエだ。