ひみつのアトリエ

この村に生息する本学教員は皆個性豊かな表現者であり研究者です。彼らにとって大切な「ひみつのアトリエ」を紹介します。普段なかなか見ることのできない先生方の素顔、意外な一面が見られるかもしれません。また、みなさんにとって何かしらのヒントが見つかるかもしれませんね。
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早川克美

芸術教養学科


 海のそばの暮らし

 私は何も持っていない。家も、車も、気がつけば家族もいない。(もちろん親や妹はいるけれど)何も持っていないことに気づいたのは3年ほど前だったか。それまで、毎日に夢中で、そんなことにも気づかずに生きてきてしまった。気がつくと、急に不安になった。私には何もないんだ、という事実は衝撃だった。それなりに真面目に働いて、というかがむしゃらに働いてきた。そのことで得られたことはたくさんあるけれど、失ったことも多いのだと打ちのめされた。しまいには、物質を持っていないことから、精神までが虚しく思えてきた。自分の中の空虚を埋められないまま、自分を責めるようになっていた。

 私は一体、何をしてきたんだ。
 追い詰められるような日々がしばらく続いた。

 そんな時、海と出会った。

 眩しい波光は、空虚に蝕まれた私を優しく包んでくれた。
 寄せては返す波に、私の中の澱が溶け出して流れていく。
 あるがままを受け止めよ。自分をあるがまま受け入れよ。
 海はそう私に語りかけているように思えた。

私はたびたび海を訪れるようになった。おおらかなその姿に、私の空虚は癒やされていった。


 海の近くに住みたい。

 働くことしか考えられなかった自分から、生きることを考えられる自分になりたい。そんな思いをこの1〜2年、持ち続けるようになっていった。東京に生まれ、東京を愛してきた自分にとって、それは意外な変化だった。この私が東京を離れる?かつては考えられないことだ。意外だけれど、とても自然にそう思えるようになったのだ。

 何も持たない私は、そう、自由だ。自由な私はどこにでも行けるのだ。
 あぁ、海のそばに住もう。そう決意した。この衝動は本能のような気がした。

 そして、私は海のそばに移住した。そこには新しい世界が待っていた。かつて抱いた虚無感も、焦燥もいつの間にか消え失せていた。この土地の人達は、生活を楽しむ天才だ。遊びと仕事のバランスがとても素敵なのだ。私もそんな生き方をしたいと思っている。
 今では、日の出と共に目覚め、海に出かける。水平線と広がる空に伸びをして深呼吸、一日の始まりだ。1時間ほど波の音をBGMにその日の仕事を考える。思いついたアイデアは、iPhoneにメモを書き入れておく。思いついたことは外に出しておいた方がいい。自分を客観視できるようになるからだ。心によぎる心配事も、海を前にすると些細なことに思えてくるから不思議、あるがまま、進むだけだと思える。

 海のそばに暮らす自分が、この先どのように変化していくのか、楽しみである。