歴史遺産コース 齋藤 貴之【同窓会賞】
西国三十三所に魅せられて
単身赴任で大阪に来たのは、コロナ禍初期の2020年6月でした。当時はとにかく人と話をすることも、お酒を飲みに行くこともままならない状況でした。では一人の休日に何をして過ごそうか?と考え、折角の関西なのだから京都・奈良の古寺社をできるだけたくさん巡ってみることにしました。
当時は、観光公害と言われるのが嘘のように京都・奈良に人がいませんでした。祇園四条駅から八坂神社まで誰一人ともすれ違わない、法隆寺に行けば伽藍を私が独占、というような、後にも先にも二度とないであろう状況でした。そんな中で三十三間堂にお参りした時に、お向かいの京都国立博物館で開かれていた特別展「聖地をたずねて─西国三十三所の信仰と至宝─」を鑑賞したのが西国三十三所との出会いでした。その仏像や写真の美しさはあまりにも衝撃的で、その場で自分で巡ってみることを心に決めました。土日を使い精力的に巡り年内に結願できました。信仰の一形態の実践、素晴らしい体験でした。そして思ったのです。このように都から離れた地のそれも多くは山の上にあるお寺の巡礼はいつなぜ始まったのか、と。なぜ観音菩薩なのか、と。一体誰が始めたのか、と。
大阪府
西国三十三所の成立プロセスに関する考察
ー日本最古の巡礼道は誰が開いたのかー
西国三十三所結願(満願)札所、美濃谷汲山華厳寺(2020年12月19日撮影)
【要約】
研究目的
日本最古の巡礼道である西国三十三所(以下、三十三所)が、現在の三十三所と同じ札所を同じ順序で巡礼することが最初に現れるのは、15世紀半ばに編纂された『撮壌集』においてである。三十三所の初出としては、最も古くは11世紀後半に三井寺の僧行尊が現在と同じ札所を巡礼した記録が『寺門高僧記』に見られる。12世紀中頃にはやはり三井寺の僧覚忠による巡礼が『寺門高僧記』に記録されている。また、「三十三所巡礼」あるいは「三十三所観音」等の語を使い33の寺名を挙げたり、それらを巡礼したりといった記録は『撮壌集』編纂までに『撮壌集』も含めて10を超えるものが伝わっている。
本研究は、これらの記録の比較検証を研究手法の中心に置き、三十三所が誰によって開かれ、どのようなプロセスを経て『撮壌集』にみられる現在の形に整えられたのかを明らかにすることを試みるものである。
考察および検証の手法
まず第一に、記録上の最古の巡礼が三井寺僧によることや、現在の一番札所である那智山を含む熊野が三井修験道の最重要の修行の場であったことなどを踏まえ、三井寺が三十三所の成立に深く関わっているとの仮説を持ち、三井寺と各札所との関係を考察することとした。
次に、三十三所に関連する可能性のある記録を検証し、各々が巡礼の次第や記録なのか、貴族等が使者派遣などにより祈願を行う対象となる寺院を列挙したものであるのかを区分することとした。これは、三十三所の成立プロセスのどこかに位置づけられる可能性がある「巡礼次第」(前者)とそうではない「祈願霊場目録」(後者)に分類し、検証対象について「巡礼次第」に焦点を絞ることで効率的に相互比較や変遷プロセス究明を行うためである。
最後に、三十三所成立期における宗教的・社会的・経済的な背景を踏まえつつ「巡礼次第」から読み取れる巡礼者・札所・巡礼時期・縁起等の情報の分析・相互比較や他の古記録との照合等の検証を通じて成立プロセスの可能な限りの実証的復元を試みた。
三井寺と札所の関係
三井寺を総本山とする寺門派は熊野三山検校職を独占的に預かっており、熊野を統率する観点から一番札所である那智山青岸渡寺は三井寺にとって重要な拠点であった。また、熊野詣の先達が配置されていた札所(醍醐寺、総持寺、長命寺等)、熊野権現が勧請されていた札所(成相寺や松尾寺)等、熊野を通じた関係があった札所は二桁に上る他、三井寺末寺であった粉河寺や三室戸寺も加えると、三十三所の札所のうち3分の1を超える札所は何らかの形で三井寺との関係が窺われる。
巡礼次第と祈願霊場目録
本研究で検証した33の観音霊場を巡礼または参詣した記録は、①『寺門高僧記』行尊の項、②同、覚忠の項、③『壒嚢鈔』、④高山寺古文書「観音卅三所日記」、⑤『枝葉抄』、⑥『撮壌集』「三十三所巡礼」、⑦同、「三十三所観音」、⑧「伏見宮家御修法注文記」、⑨「公衡公記」、⑩「御産御祈目録」、⑪『拾芥抄』「三十三所観音」である。これらを検証した結果、①~⑥は、特定人が、記載されている観音霊場を修行的な目的も含めて巡礼した記録か、巡礼対象の霊場(一部記録はその順番も)を記した「巡礼次第」であると判断した。⑦~⑪は、貴族階層が祈願等のために本人が参詣するか、使者を遣わす等、その対象となる霊場を列挙した「祈願霊場目録」と言えるものである。
三十三所成立プロセス
「巡礼次第」を検証すると、①は行尊、②~⑤は覚忠による二度の巡礼に基づく記録であるとわかる。しかし、①については、長谷寺を一番、三室戸寺を最後としていることの理由がないなど、記録通りの巡礼ルートの実在は信用し難いもので、『寺門高僧記』編纂時に作られた可能性が高い。よって覚忠の初度巡礼(『壒嚢鈔』、長谷僧正としての巡礼)が最古の三十三所巡礼の記録であり、覚忠が三井寺との関係があり修行上も重要な観音霊場を中心に、当時広く信仰を集めていた観音霊場を加えて巡礼を行ったのが、三十三所の原型となったと考えられる。そして覚忠二度目の巡礼で極一部の札所に変更があって以降、現在まで札所は入れ替わりなく続いてきたと言えよう。
巡礼の順番(札所の順番)については、覚忠は二度とも現在も一番札所である那智山から始め三室戸寺を最後としている。谷汲山が現在のように最後となったのは、14世紀半ばであり、それは東国からの巡礼者が増え、谷汲山を最後とすることで巡礼後、東国へ帰ることを容易にするためであったと考えられる。すなわち覚忠初度の巡礼結願寺である三室戸寺を大和から山城へ移動するルートに置き、谷汲山を最後とすると、現在の順番に非常に近いものになるのである。
現在と全く同じ順番で巡礼ルートが固定した時期については、『撮壌集』が編纂された15世紀半ば、巡礼の創始から短ければ120年ほど、長ければ220年ほどの期間の中で成立したものと推測される。
齋藤 貴之【同窓会賞】
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