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アートライティングコース 北川 奈実【同窓会賞】

岐阜県

茨木のり子「隣国語の森」を読む

0.はじめに  

 茨木のり子は「隣国語の森」(詩1)に限らず、エッセイなどでもたびたび「隣国語」という造語を使う。これは詩人らしい粋な言い換えといった類のものではなく、日本人にとっては韓国語と言えどもそのじつ朝鮮語でもあることへの配慮であり、「朝、鮮やか」という美しい国の名前が、日本の旧悪により、韓国でも忌み嫌われる言葉となってしまったことへの抗議でもある(註1)。よって、本稿もそれにならい「隣国語」と表記した。

1.隣国語を話すように

 「隣国語の森」は、詩人・茨木のり子が一九八二年に発表した作品である。「わたしが一番きれいだったとき」(詩2)「自分の感受性くらい」(詩3)「倚りかからず」(詩4)などで知られるのり子は、隣国語の学習者でもあり、同じく現在隣国語を学んでいる私は、五十歳から隣国語を習いはじめた彼女に日々勇気づけられている。現代詩の長女とも呼ばれたのり子の詩は、戦後の女流詩人としての批判精神がその特徴であり、この「隣国語の森」においてもその批判性は認められる。しかし、彼女の魅力でもある歯切れのいい断言するような物言いや、ユーモア、かるみを感じさせる表現は見当たらない。同じ内容なら、天皇を批判した「四海波静」(詩5)や、国歌を批判した「鄙ぶりの唄」(詩6)のような強くて張りのある詩も書けただろう(註2)。けれどもそうならなかったのは、まさに隣国語を扱っていたからだと考えられる。
 「隣国語の森」を考察するにあたっては、この詩が収録されている詩集『寸志』を出発点とした。第2部の最後に掲載されているのだが、次のとおりである。

   Ⅱ (註3)

・花ゲリラ[言葉について]  
・聴く力  
・聞き星  
・言葉の化学  
・訪問[詩作について]  
・成分[詩について]  
・賑々しきなかの[言葉について]  
・寸志[日本語について]  
・隣国語の森          

 『寸志』の第二部全体で言葉をテーマにしていることがわかるだろう。隣国語を学んだことによって、のり子はほぼマスターしたと思っていた日本語にもまだ知らない豊かさがあると気づいたという(註4、註5)。そんなのり子が書いたこの第二部は、彼女の詩作や詩論に関わるものもあるため、また改めて読んでみたいのだが、今回注目したいのは「寸志」(詩7)である。じつはのり子の詩の特徴のひとつに、二つのものを対比させるという詩法があり、のり子自身も、ものを相対的にとらえようとする癖があると述べているのだが(註6)、のり子が言うその癖に当てはめると、「寸志」は日本語について書かれているため、そのあとに載せられた「隣国語の森」とは対比するものとして提示されているのだろう。この場合は、母国語である日本語ゆえに表情豊かに自由自在に言葉を操る軽やかな「寸志」と、外国語である隣国語ゆえに定型文のような抑揚のない重々しい「隣国語の森」という構図である。そのためだろうか、「隣国語の森」の文体にはどこか物足りなさを感じてしまうのだ。 しかし、隣国に向けてたどたどしく隣国語を話すのり子を思い浮かべると、この詩の飾らない淡々とした文体は、隣国に対する彼女のひたむきな姿勢をかえって際立たせているようでもある。

2.「隣国語の森」を読む

 第一連は当時の状況だろう。隣国語を学ぶにあたり大きな壁にでもぶつかったのか、不安な様子である。並べられた単語は子音の「ㅂ(p・b)」を使い韻を楽しんでいるようだが、最後はその法則からはずれ「こわい(무서워)」と発しているのが印象的だ(註7)。弱い自分は出したくないという反動が強い言い切りになったと自身の詩を分析したこともあるのり子だが(註8)、隣国語では素直に弱音を吐けるところも興味深い。一転、第二連は習いはじめの頃だろう、ハングルが読めるようになったよろこびをあらわしている。ハングルは母音と子音が可視化されているため、十個の母音と十四個の子音を覚えることが隣国語学習においての最初の一歩となるわけだが、暗号を解いたようなあの爽快感はのり子も同じだったようだ。残念ながら羅列された単語に法則性を見出すことはできなかったが(註9)、のり子には隣国語の音のほうが素敵だと思う単語もあったためそれらかもしれないし(註10)、また、のり子の作品を研究した金智英(キム・ジヨン)によると第一連・第二連で書き連らねられた単語は、「秘密비밀(ピーミル)」以外はすべて隣国の固有語、つまり日本語における大和言葉にあたるという(註11)。それらをふまえ、同じ隣国語を学ぶ者としてここはまた引きつづき追求したい。
 第三連では、石川啄木の短歌、「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」を引用することで、日韓併合に反対していた啄木同様、のり子自身も隣国に思いを寄せていることを伝えたのだろう。しかし、隣国語学習をはじめた動機を示す詩行が「汗水たらたら今度はこちらが習得する番です」なのは、日本語を強いられた経緯をもつ隣国の詩人・洪允淑(ホン・ユンスク)への「日本語がお上手ですね」という自身の不用意な発言があったためである(註12)。けれども「ごめんなさい」や「申し訳ない」などの謝罪ではなく、「ゆるして下さい」と素直に懇願できたのは、そこに許しを乞うための最大限の行動が伴っていたからだろう。実際にのり子と洪はその後友人関係となり、手紙のやりとりを中心に交流を深めていた。そして洪に向けて書いた「あのひとの棲む国」(詩8)には、政府の発表や報道よりも友人とのやりとりほど確かなものはないとし、「一人と一人のつきあいが/小さなつむじ風となって」とある。こののり子の考えは、これからの日本と隣国の関係を構築するうえで、重要な礎となるのかもしれない(註13)。

 第四連・第五連では、日本人への差別用語「倭奴(ウェノム)」や「恨(ハン)こもる言葉」とは対照的に、隣国語の楽しさ・面白さが綴られている。「俗談(ソクタム)」とは日本でいう「ことわざ」にあたるのだが、そのなかでものり子の一番好きな「虎に噛まれて連れ去られても気を確かに」(註14)と、この第四連・第五連とは無関係ではないだろう。さきにあげた「鄙ぶりの唄」でもわかるのだが、のり子は血で汚れた国歌よりも民謡こそがそれにふさわしいと考えていた。そのため、十五歳の頃から愛読している『朝鮮民謡選』によってすでに隣国の神髄に触れていたのり子は(註15)、「俗談」にも同じものを感じとったようだ。日本人である自身の奥底にも「虎」はいると素直に打ち明けてはいるものの、生活のなかから自然に生まれた隣国のつぶやきのあまりの巧みさに「すっかりいかれてしまう」(註16)のであった。
 そして最終章の第六連は、一九四五年、日本留学中に獄死した隣国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)についてであるが(註17)、この詩人については何も説明がいらないほどのり子がすべてをそこに書ききっている。というよりも、省けるものがなかったのだろう。彼についてはエッセイでも言及し、のちにそのエッセイ「空と風と星と詩」は高等学校の教科書にも採用された(註18)。日本人はあまりにも歴史を知らなすぎると嘆いていたのり子にとって(註19)、日本の教育現場で隣国の詩人が取り上げられることは、のり子と洪允淑との交流のように、やがて大きな渦巻となるための小さなつむじ風なのだ(註20)。

3.おわりに

 詩人・茨木のり子は、弱い自分を刺激し鼓舞するために詩を書き続けたという(註21)。「隣国語の森」の第一連が弱いのり子ならば、楽しかった頃を綴った第二連は、まるでその頃を思い出しなさいと彼女自身に呼びかけているようでもあり、隣国語を学ぶきっかけを記した第三連は、初心を忘れないようにと諭しているようでもある。そしてこの第三連には隣国語の強さや美しさも記され、つづく第四連・第五連が示すその奥深さをへて、最終連、それらを清らかに謳う才能豊かな詩人・尹東柱へとつづいていく。
 つまり、この「隣国語の森」はのり子自身への激励であると同時に、隣国語への賛辞でもあったわけだが、のり子が自らを励ましてでも隣国語の学習をつづけたのは、その美しい言語を虐げてしまった日本人のひとりとして、その事実と真摯に向き合ったからだろう。詩人としてのり子が選んだ謝罪の術が隣国語の習得であり、その魅力を日本に伝えることであったのだ(註22)。その勉学の成果でもある『韓国語現代詩選』には、隣国語を使って生きる民族の感情・理性のもっとも良きものの結晶として、のり子が訳した六十二篇の詩が収められている(註23)。



【タイトル】

茨木のり子「隣国語の森」を読む

【概要】  

 「隣国語の森」は、詩人・茨木のり子が一九八二年に発表した作品である。のり子は韓国語を学ぶ私にとって大先輩にあたり、この「隣国語の森」の存在もその関係で知り得たのだが、一読すると茨木のり子らしくない乏しい文体に本当に彼女が書いたのかとさえ疑ったほどである。しかし、隣国語で話すように書かれたものだと仮定したとき、かえってそのぎこちなさが、隣国に対するのり子のひたむきさを強調しているようでもあった。それを踏まえながらこの詩を読み解くと、隣国への謝罪と隣国語を学ぶことは、のり子にとっては同義だったのではないかという結論に達したのだ。

【意図】

 茨木のり子といえば「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」「倚りかからず」などが代表作であり、この「隣国語の森」が取り上げられることはほとんどないだろう。しかし隣国語を学ぶということは、それを虐げてしまった歴史を知ることとセットでなければならないというのり子の考えを体現したかのようなこの「隣国語の森」は、隣国語を学ぶ者にとっての指針となり、またお守りのような存在となるのではないかと考えた。反日・慰安婦・靖国・竹島・徴用工・No Japan。これらの報道を聞くたび、政治と芸術や文化は別物と決めつけ見て見ぬふりをしてきたが、隣国語学習者であればいつ目の前につきつけられてもおかしくない状況だ。どんな歴史書よりも一人の詩人の言葉が心に響くと言っていたのはのり子自身だが、「隣国語の森」もそれにあたるだろう。

【構成】
1、「隣国語」の意味を記す
2、「隣国語の森」はなぜ乏しい文体なのかを記す
3、第一連から第六連にかけて順に読み解く
4、まとめ

註・参考文献
【註】
1)茨木のり子・金裕鴻『言葉が通じてこそ、友だちになれる』筑摩書房、2004年、44頁。
2)茨木のり子『谷川俊太郎選 茨木のり子詩集』岩波書店、2014年、323頁。日本の詩歌の伝統は弱々しいと分析したのり子は、自身の詩は強くて張りのあるものを目指していた。
3)題名だけでは内容がわからないものには、[ ]内に簡単なテーマを記した。
4)茨木のり子『一本の茎の上に』筑摩書房、1994年、90頁。
5)茨木のり子『茨木のり子集 言の葉③ 』筑摩書房、2002年、201頁。
6)大久保憲一『茨木のり子』花神社、1985年、120頁、134頁。
7)茨木のり子『寸志』花神社、1982年、95頁。「隣国語の森」第一連より抜粋。「栗は밤(パーム)/風は바람(パラム)/お化けは도깨비(トッケビ)/蛇 뱀(ペーム)/秘密 비밀(ピーミル)/茸 버섯(ポソッ)/무서워(ムソウォ) こわい」
8)大久保憲一『茨木のり子』花神社、1985年、120頁。
9)茨木のり子『寸志』花神社、1982年、96頁。「隣国語の森」第二連より抜粋。「陽の光 햇빛(ヘッピッ)/うさぎ 토끼(トキ)/でたらめ 엉터리(オントリ)/愛 사랑(サラン)/きらい 싫어요(シロヨ)/旅人 나그네(ナグネ)」
10)茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年、83頁。
11)金智英『隣の国のことばですもの』筑摩書房、2020年、177頁。
12)茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年、19頁。洪允淑(1925〜2015)が来日した際、彼女から、一度お目にかかりたいとの連絡を受けたのり子は、銀座で彼女と会うことになった。その際、美しい隣国の女性があまりにも流暢な日本語を話すので、思わず感嘆の声をあげてしまったようだ。のり子は、日本語を無理やり強要したという歴史を頭ではわかっていたのに、その痛みまでは理解できていなかったことを痛感したという。この出来事は、のり子が隣国語をはじめるきっかけのひとつとなった。
13)茨木のり子『茨木のり子全詩集』花神社、2010年、236~237頁。「あのひとの棲む国」第三連より抜粋。「雪崩のような報道も ありきたりの統計も/鵜呑みにはしない/じぶんなりの調整が可能である/地球のあちらこちらでこういうことは起っているだろう/それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして/一人と一人のつきあいが/小さなつむじ風となって」
外国人を見たらスパイと思えと教えられてきたのり子にとって、洪との友人関係は喜ばしい反面、国への不信感はますます強くなったことだろう。彼女は、世界のあらゆる紛争や戦争といったものに目を向けてもいた。つむじ風は、のり子にとって世界を変えるきっかけの象徴である。
14)茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年、118頁。虎の習性は獲物をいったん投げあげてぐったりのびれば直ちに食い、ねじくれたり坐ったりすれば食わないと言い伝えている。だから危機一髪、あわやの時も精神さえしっかり持っていれば、生きるチャンスも見つけられる。これほど隣国の粘り強い民族性を現している諺もない。そして、どこか言いしれぬおかしみも湛えている。
15)茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年、16頁。
16)同書、110頁。
17)茨木のり子『寸志』花神社、1982年、100~101頁。「隣国語の森」第六連より抜粋。「若い詩人 尹東柱/一九四五年二月 福岡刑務所で獄死/それがあなたたちにとっての光復節/わたくしたちにとっては降伏節の/八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは」
尹東柱(1917~1945)は留学先の京都で、独立運動をしたとの理由(禁止されていた隣国語で詩を書いた)で特高警察に検挙され、獄中、正体不明の注射を繰り返し打たれたことにより衰弱し、ついには獄死した。生前は無名であったが、現在では受難のシンボルとして隣国で人気の詩人である。
18)茨木のり子『茨木のり子集 言の葉③ 』筑摩書房、2002年、131頁。
19)金裕鴻『言葉が通じてこそ、友だちになれる』筑摩書房、2004年、150~154頁。
20)茨木のり子『茨木のり子全詩集』花神社、2010年、35頁。「小さな渦巻」第五連より抜粋。「ひとりの人間の真摯な仕事は/おもいもかけない遠いところで/小さな小さな渦巻をつくる」のり子にとってつむじ風同様、渦巻もまた世界をより良くするためのきっかけの象徴であり、この詩には他に「竜巻」という表現もある。
21)後藤正治『清冽』中央公論新社、2010年、223頁。
22)茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年、18頁。のり子が隣国語をはじめたころ、在日の文学者、安宇植(アン・ウシク、1932〜2010)に会った際、英語やフランス語の詩は名訳で読めるのに、隣国の詩を訳せる詩人が一人もいないのは驚くべきことだと言われた。そして獄中に在った金芝河(キム・ジハ、1941〜、隣国の抵抗詩人)について、日本の詩人がやるべきことは、救出活動よりも先に、まず彼の詩を読むこと、きちんとその詩を批評することだと指摘された。
23)茨木のり子訳編『韓国現代詩選 新装版』花神社、2004年、194~195頁。


【参考文献】
・阿部晴政編『茨木のり子』河出書房新社、2016年。
・茨木のり子『うたの心に生きた人々』さ・え・ら書房、1967年。
・茨木のり子『詩のこころを読む』岩波書店、1979年。
・茨木のり子『寸志』花神社、1982年。
・茨木のり子『ハングルへの旅』朝日新聞社、1986年。
・茨木のり子『一本の茎の上に』筑摩書房、1994年。
・茨木のり子『茨木のり子集 言の葉①②③ 全3巻』筑摩書房、2002年。
・茨木のり子『茨木のり子全詩集』花神社、2010年。
・茨木のり子『茨木のり子の家』平凡社、2010年。
・茨木のり子訳編『韓国現代詩選』花神社、1990年。
・碓田のぼる『石川啄木と「大逆事件」』新日本出版社、1990年。
・大久保憲一『茨木のり子』花神社、1985年。
・金素雲訳編『朝鮮民謡選』岩波書店、1933年。
・金智英『隣の国のことばですもの』筑摩書房、2020年。
・金裕鴻『言葉が通じてこそ、友だちになれる』筑摩書房、2004年。
・後藤正治『清冽』中央公論新社、2010年。
・櫻井小百合編ほか『茨木のり子展』群馬県立土屋文明記念文学館、2010年。
・櫻井武次郎『奥の細道行脚』岩波書店、2006年。
・高橋治『高橋治のおくのほそ道ほか』講談社、2001年。
・竹内清乃編『茨木のり子』平凡社、2019年。
・多胡吉郎『生命の詩人・尹東柱』影書房、2017年。
・山本安英ほか『茨木のり子』花神社、1985年。
・尹一柱編『尹東柱全詩集 空と風と星と詩』伊吹郷訳、記録社、1984年。
・金智英「尹東柱詩の翻訳問題再検討──茨木のり子による伊吹郷訳評価を通して──」2017年、立教大学学術リポジトリ
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=14643&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=49(2021/01/08閲覧)
・金智英「茨木のり子とハングル──ハングル学習の動機と時代背景についての考察──」2019年、立教大学学術リポジトリ
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=17515&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1(2021/01/08閲覧)

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