アートライティングコース 若尾憲治【学長賞】
塩の道を往く 奥三河から伊那谷へ小さなバス紀行
【本文】
三河の塩が辿った道
「塩の道」とは(註1)、海辺の塩の産地と山国の消費地を結ぶ街道で、北海道と沖縄を除く全国各地に存在した。江戸時代、三河湾沿岸各地で作られた塩はこの道を辿って信濃へ運ばれた。三河の塩は矢作川を川船で遡り、奥三河の商業の中心、足助(あすけ)へ運ばれ、そこから馬に積み替えて、信州飯田から、さらに東山道を塩尻、松本目指して伊那谷を北に向かった(画像1)。
明治に入り、鉄道の開通で、街道はその役割を終え、今は、小さなバスが山間の集落の人たちの生活を支えている。
過疎化が進む宿場町、そこにはどんな暮らしがあり、どんな文化の伝承があったのか、山間の集落を小さなバスで巡り、新たな気づきと発見の旅を記そうと思う。
塩の記憶が残る不思議な山里
旅の始めは、足助とした。ここは多くの塩問屋が集まり、塩商人たちが信州へ向け、険しい峠越えの旅支度を整えた町だった。足助へは、岡崎と豊田から大手のバス会社による路線バスが通う。10月中旬の金曜日、名鉄東岡崎駅を出発した時、バスはかなりの乗客を乗せて出発したが、バス停ごとに少しずつ減り、山が迫り、大きな石が転がる矢作川の中流に差し掛かるころには車内はまばらとなっていた。
足助は、紅葉の名所、香嵐渓で有名であるが、その季節を外せば静かな町である。町の北側の観音山に登れば南北2kmほどの谷間に沿ってできた町が一望できる(画像2)。
古い街道沿いに並ぶ塩問屋では、昔、塩商人たちによって「足助直し」と呼ばれる塩の仕立て直しが行われた。各地から集まった塩は客の要望に合わせてブレンドされ、用途に応じて小分された後、馬の背に積みやすいよう梱包して信州に向けて出荷されていった。 老舗が続く目抜き通りを南に下ると町のシンボルとなっているマンリン書店という本屋がある。江戸時代からの呉服商だったらしい。土蔵の店内は、昭和レトロというありきたりな言葉では表せない不思議な空気が漂う。昭和の始め、先々代が書店を開いたのだという。今は、ベストセラーや雑誌は置かず、店主の選ぶ本だけを置いている。創業者の奥三河に文化の火を灯したいとの想いを引き継ぐ店主の心意気だろうか(画像3)。
この日は江戸期からの暖簾を守る旅籠、玉田屋に宿をとった。宿の女将さんの話では、先代の若い頃は、この町には劇場や映画館もあり、芸者さんが揃う花街もあって、拳母(ころも、豊田市の旧名)の方からも人が集まったと聞いた。谷間に広がった足助の秋は午後4時を過ぎると、あっと言う間に黄昏時が訪れ、1枚羽織りたくなる。夕食を済ませ、少し通りを歩いた。すっかり夜の帳が降りていた。8時を過ぎ、岡崎からの最終便が3人の客を乗せて過ぎていった(画像4)。
奥三河に残る人形座の里
もみじが色づく前の香嵐渓の朝は、足助川のせせらぎの音しか聞こえない。土曜日早朝のバスは、私と年配のご婦人、それにラケット抱えた高校生の3人を乗せ、足助の街並みを足早に駆け抜け、奥三河東北部の中心地、稲武(いなぶ)目指して国道153号を快走した。途中の伊勢神峠は標高800mを越え(註2)、昔は塩を載せた馬を引く旅商人に最初に立ちはだかる難所だった。今はトンネルが開通し、あっけなく走り抜ける。 足助を出て30分、峠のトンネルを抜けると左手下に広がる小さな集落が見える。小田木というバス停で降りた。昔は峠を行き来する塩商人がここで荷を整え、馬たちを休ませる馬宿が並んでいた。集落の外れには、馬たちへの感謝と祈りを捧げた馬頭観音が祀られている(画像5)。
何も知らなければ、小さなこの集落は通り過ぎてしまう。ここでバスを降りたのは理由があった。ここには、この集落に伝わった人形座があった。その由来は定かではないが、文楽人形の研究者、斎藤清二郎の調査で、日本で最も古い様式の人形座のひとつで、18世紀半ばの宝暦年間には既に成立していたことがわかり、世に知られることになった(註3)。しかし、その演舞は明治8年を最後に途絶えた。昭和42年に愛知県の無形文化財の指定を受けたことを機会に、芸能を復元させる動きは何度かあったが、公演資料や記録もないので演者がわからず、人形芝居の復元は実現しなかった。やっと平成22年に復元を目指した準備会が発足し、平成25年の保存会立上げを経て、実際に復活公演が行われたのは、平成28年のことだった。最後の公演から140年の間、人形のカシラや衣装は、集落の人たちによって、春秋の虫干しを欠かすことなく、戦争中も大切に守られてきた。人形や衣装は、普段、小田木集落の東のはずれにある稲武郷土資料館に展示されている(画像6)。
奥三河、伊那谷一帯に伝わった人形座は、江戸時代末期には40を超えたという記録が残っている(註4)。それらは、名古屋から塩の道を経由して奥三河に伝わった関西様式と、天竜川に沿って、秋葉街道を経て伝わった江戸の流れを汲む様式があり、小田木人形座は、2つの様式がこの地で交わったとされている。塩の道は密に人形の道でもあった。
下伊那へ続く塩の道
小田木から稲武へは約5km、足助からのバスはほぼ1時間に1便と便がよい。稲武で県境を越えて長野県下伊那の根羽(ねば)村に向かうバスに乗り換える。このバスは1日3便しかない。しかも、根羽で飯田方面へのバスには数時間待たねばならない。三河と下伊那の交流は希薄になっているように見える。しかし、根羽は、中世から明治の廃藩置県まで三河の領地で、今も三河の影響が強く、平成の大合併の時は豊田市との県境を越えた合併が真剣に議論されたという(註5)。
塩の道で最も山深い下伊那には、根羽、平谷、浪合と3つの宿場町が続く。この宿場町は、赤坂峠、治部坂峠、寒原峠と険しい峠で隔てられている。2日目の宿は、根羽から赤坂峠を越えた平谷に取った。平谷は美濃の岩村を経て中山道の恵那、瀬戸へ繋がる上村街道の追分でもあった。この道は瀬戸の焼き物が信濃へ運ばれた道で、瀬戸の経済を支えた道でもあった。恵那の「しょう味噌」と言う郷土料理が平谷に「しょい味噌」として伝わっている。下伊那は美濃とも深い交流があったことが分かる。平谷は標高1000mの高地にあり、真冬には、氷点下10度以下になるという。10月中旬の夜、厚手のセーターがないことを後悔した。
3日目、平谷からこの街道一の難所であった標高1100mの治部坂峠を越え、20分ほどの道のりを浪合に向かう。バスは整備された国道で昔の難所を難なく越えていく。昭和40年代初め頃までは、飯田へのバスは細く曲がりくねった旧国道を根羽から2時間半以上かけて飯田に通ったという。治部坂峠を下り、小さな河岸段丘に広がった集落が浪合である。
下伊那の根羽、平谷、浪合の3つの宿場の違いは興味深い。根羽と平谷は三河湾に注ぐ矢作川水系、浪合は遠州灘に繋がる天竜川水系で、その間の治部坂峠が分水嶺となっている。この峠は、道中で最も標高が高く、街道最大の難所であった。この治部坂峠を境に、前者は三河の、後者は伊那の民家建築の様式に繋がっている。峠の南側、根羽と平谷は、梁と並行方向に家の入り口を置く切妻平入様式、一方、北側の浪合は、家屋の切妻側に家の入口を置く本棟造りの切妻妻入り様式で(画像7)、この本棟造りは信濃中部南部だけに見られる様式である。屋根の勾配がゆるく、妻が大きく、民家とは思えぬほど堂々とした構えである(註6)。
言葉訛りもこの峠で三河訛りと信濃訛りに分かれるという。文化を分けるのは国ざかいではない。谷ごとに住まう様式が変わっていくのである。
旅の終り 駒場宿
駒場は、「こまんば」と読む。バスは浪合からは寒原峠を越え、国道の長い坂を下っていく。浪合から駒場へは20分ほどである。駒場は、畿内の近江と東国、多賀城を結んだ中世の古道、東山道の追分であった。東山道を西へ進めば、美濃の名峰、恵那山の登路、神坂峠を越えて木曽谷へと通じていた。
曽山入口というバス停で降り、国道右の脇道に入ればそこが駒場宿の旧街道で、道沿いには切妻平入の2階建てに、千本格子、犬矢来という粋な設えの家並みが続く。その向かいには洋風の下見張りがこじゃれた旧阿知郵便局が見えてくる。鄙びた塩の道の宿場とは明らかに造りが違う町並みである(画像8)。国道に戻れば、コンビニや今風の大型店舗が並ぶ。ここは南信濃の中心飯田市の郊外なのだ。西の空を見上げれば、中央道の巨大な鉄骨橋梁が谷間の宿場町を素知らぬ顔で跨いでいる。橋の下には高速バスのバス停がある。
高速バスは3日かかった道のりを2時間余りで現代社会に戻っていく。
【註】
註1)「塩の道」は、地域によってさまざまな呼び名がある。尾張地方では、「飯田街道」という呼び方が普及しており、道路標識や交通情報などにも使われている。三河では「伊那街道」といわれることが多いようだ。信濃側では、三州街道、三河街道が一般的である。他に、下伊那地域では、長野善光寺参りの信仰の道として「善光寺道」と書かれた古い道標も存在する。「塩の道」、「中馬街道」は、三河側、信濃側の双方で使用された名称である。街道沿いの町の観光パンフレットでは、こちらが使われていることが多い。
中馬とは、江戸時代、この街道の主力輸送手段が馬であり、馬を利用する物流のシステムを中馬と言ったことに由来する。
註2)参考文献1)に掲げた『炉辺夜話―奥三河稲武の歴史―』第6話「伊勢神峠とサルトロード」によれば、「伊勢神峠」の名は、古い文献には石神峠と書かれていたが、いつの間にか、伊勢神と書かれるようになった。もともとの名の由来は、江戸時代のお陰参りが流行った影響ではないかという説があるが定かではない。慶応元年、峠に伊勢神宮遥拝所が置かれて、現在の表記が一般化したと言う。
註3)この記述は、参考文献5)『小田木人形座考』、「小田木人形の由来」の項の記述に従ったものだが、淡路を発祥とする『淡路人形繰り』を古浄瑠璃の起源とする説もある。
註4) 参考文献6)に掲げた飯田市美術博物館から出版されている『伊那谷の人形展』図録に詳しく記載されている。伊那谷では4座の人形座が江戸時代からの伝統を現在に引き継ぎ、国の無形文化財に指定されている。伊那谷の人形座はプログラムなど公演記録もよく残され、研究も進んでいる。
小田木人形座の復元には、伊那に残る人形座からの資料提供やサポートが数多くあったという。
註5)当時、根羽村では三河と歴史的にもつながりが深く、トヨタ系企業が根羽に進出し、経済的にも関係が深い豊田市との合併を支持する案と飯田市との行政上の連続性を重視する案で意見が分かれ、最終的には村として存続の道を選んだと言う。
飯田市を拠点とする地方紙、南信州新聞(2003年1月19日付)に、合併に関する記事が掲載されている。(南信州サイバーニュース版)
南信州サイバーニュース (minamishinshu.co.jp)
註6)本棟造りは松本、塩尻から伊那谷にかけての信濃中南部だけに見られる民家の建築様式で、切妻妻入りに、傾斜の緩やかな板葺きの大きな屋根、屋根の上の雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りが特徴である。多くは、庄屋、富裕な農家など格式の高い家に多い。画像7)の浪合の本棟造りの建築には、雀おどしが見られない。初めからなかったのか、後に外れてしまったのかはわからなかった。
【参考文献】
1)古橋和夫『炉辺夜話―奥三河稲武の歴史―』、桃山書房、1978年。
2)古橋和夫『小田木人形座考』、稲武町教育委員会、1969年
3)平島裕正『塩の道』、講談社現代新書、1975年。
4)富岡儀八『塩の道を探る』、岩波新書、1983年。
5)大林淳男『講演要旨 きた道、ゆく道』、豊橋創造短期大学研究紀要、2003年、http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou20/10OBAYAS.pdf 閲覧日2020年11月27日
6)大井隆弘『本棟の家』、『TOTO通信』2016年新年号、2016年。
7)飯田市立美術博物館編『伊那谷の人形展』図録、飯田市美術博物館、1991年。
8)宮崎俊三『ローカルバスの終点へ』、河出文庫、2019年。
9)司馬遼太郎『街道をゆくー濃尾参州記―』、朝日文庫、1998年。
画像1)塩が辿った道 三河湾の海辺で作られた塩は、足助の少し下流の古鼠(ふっそ)まで矢作川を川船で遡り、陸路で足助の塩問屋に運ばれた。足助で荷姿を整えられた塩は、馬の背に乗せられ、いくつもの峠を越え、信濃に向かった。最も標高の高い治部坂峠では、標高1100mを越える。冬は難儀な道だったんだろう。 (画像の地図の作成者:筆者)
画像2)観音山から足助宿を見下ろす この町の北側の丘、観音山に登るとこの町が一望できる。真ん中を足助川が流れ、南北2㎞の小規模な河岸段丘に沿ってできた町はまるで箱庭のようだ。平地が少ないので人家の屋根はびっしり重なり合って見える。屋根はそこに住む人の大切な帽子、グレーや青、赤の瓦が散らばり、古い瓦は遠いむかしの緋色のパッチワーク。きっとお隣同士の生活も重なりあっているのかな。そこにはご近所付き合いという人と人のきずなが残ってるんだろう。 (撮影日/2020年10月9日 撮影:筆者)
画像3)不思議な空間 マンリン書店 江戸時代から続く大店で、古い土蔵がそのままに使われている。この書店は昭和の初めに先代の店主が始めたらしい。書店の奥には、サロン、ギャラリー、工房と続く落ち着いた土蔵の空間。サロンにはチェンバロが置かれている。 「10年ほど前までは、コンサートをやってましたが、今は、私が時々触る程度です・・・・・・」と立ち姿が凛とした店主は答えてくれた。書棚に並ぶ本に目をやれば、三河の山奥に文化の灯りを消したくないという店主の想いが伝わる本が並んでいる。『アイルランド「ケルト」紀行』、『ゴーストリイ フォークロア』、『イギリス現代詩集』・・・・・・誰が買うんだろう。 (撮影日/2020年10月9日 撮影:筆者)
画像4)夜の足助宿 8時を過ぎて、人気のない街道。南西の空がぼんやり明るいのは、黄昏の残像ではない。18km離れた豊田市の街の灯りが微かに届いている。現代文明からのかがり火のようにも見える。 さっき、岡崎からの最終便が数人の乗客を乗せて通り過ぎていった。この時間、もう、現代社会へ戻る便はない。 (撮影日/2020年10月9日 撮影:筆者)
画像5)馬方たちの守り神 国道を逸れて旧道に入った集落のはずれに「おりゅうさん」と呼ばれる馬頭観音が祀られた岩群がある。むかし、この集落に、「おりょう」と言う娘がいた。「おりょう」は馬の手入れやお産の世話がうまく、馬方たちから篤く信頼されたという。いつの頃か、この場所は「おりゅうさん」と言われるようになったという。今も、毎年7月には、集落の人たちによるお参りがあると聞いた。 (撮影日/2021年1月7日 撮影:筆者)
画像6)人形座を彩ったカシラたち 人形道具、カシラ40点、衣装、25点は公演が途絶えて以来、集落の人たちによって大切に守られてきた。 今は、豊田市立稲武郷土資料館に保存されている。 人形座は、木曽側の恵那、奥三河の設楽にも文献としては残っているが、こうした古浄瑠璃の道具は残されておらず、ここ小田木の人形座の資料は、人形浄瑠璃が伝わった過程を示す非常に貴重なものとされる。人形浄瑠璃という高度な伝統芸能がこの山深い里に伝えられ、ここで江戸と上方の様式が交わって成立した。五穀豊穣を祈る神事として、そして、山間に暮らす人々のハレの日の楽しみとして人形座を今に伝えたことは、塩の道のもう一つの役割だった。 (撮影日/2020年10月10日 撮影:筆者)
画像7)なぜ浪合で本棟造り切妻妻入りが発達したのかについては、屋根裏で養蚕の作業スペースとした、あるいは、冬の北風を避けるためなど諸説があるが、よくわかっていないらしい。浪合のこの家は、明治7年に集落の大半が焼けた大火の後造られたもので、出入り口が幅広く取られ、馬が二頭が並んで荷車ごと出入りできた。この集落が中馬で華やかだった頃の生活が窺える。(右側 浪合宿 撮影日/2020年10月11日 撮影:筆者 左側 平谷宿 撮影日/2021年1月7日 撮影:筆者)
画像8)「こまんば」宿 ほんの少し「昭和のはじめ」の香りが漂う街並み 画像右手の洋風建築が、旧阿知郵便局である。左手に並ぶ民家も、屋根は瓦葺きが多くなり、平谷、浪合の民家との違いがわかる。この宿場は、60頭を超える馬が常駐していたという記録がある。昭和の時代には、中屋という旅館をやっていた家は、その前は運送業で、広い間口からは、馬が引く荷車が入り、裏には厩があったらしい。道行く人に、厩の話を聞いても知る人はいなかった。もう遠いむかしの話らしい。 (撮影日、2020年10月11日 撮影:筆者)
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