本文へ移動

和の伝統文化コース 原 清美【パネル展示論文】

 東信州の佐久地域は、北に浅間山、南に八ヶ岳、東に荒船山、西に蓼科山と四方を山々に囲まれ、佐久平の中央に千曲川が流れる。
 徳川幕府により五街道の一つとして中山道が制定されると街道を中心に地域経済が発展した。中山道は京の公家の姫が水戸や江戸への降嫁や参勤交代、商人が利用していた。江戸時代中期以降、伊勢神宮や善光寺などの参詣を目的とする庶民の旅が緩和され、地図や旅のガイドブックなどが多数刊行され、旅ブームが到来する。
 しかし、東信州中山道は古来より浅間山が噴火を繰り返し、千曲川は「近郷無類の荒川」と謂れ災害の多い地域であった。標高が約650mから1600mの山間部の貧しい山村を馬や徒歩で旅した人々は、何を食べて旅のエネルギーとし、どんな名物料理があったのか、また、街道を支えた人々は何を食していたのか、江戸時代後期に宿場の本陣の古文書や中山道を旅した武士や商人の日記、さらに十返舎一九の『方言修行金草鞋五編木曾路巻』、竹野半兵衛『諸国道中商人鑑 中仙道道中商人鑑』から旅人の食「ハレの食」について探り、さらに郷土史家の先行研究から佐久地域に暮らす人々の日常「ケの食」について調査し、考察した。



長野県

東信州中山道の旅人の食から見る佐久地域の食文化

渓斎英泉筆「木曽街道六拾九次廿弌 木曽街道追分宿浅間山眺望」 国立国会図書館デジタルコレクション

【要約】
 江戸時代中期以降になると街道整備が進み、経済活動が活発化すると豊かな庶民が増える。幕府は社寺参詣や湯治を目的とした旅に対して規制を緩和し、浮世絵版画や絵図、滑稽本などが刊行され、庶民層を中心に旅ブームが到来する。
 五街道の一つであった中山道は、江戸と京都を結ぶ東海道の裏街道と位置付けられていた。東信州を通る中山道は3つの峠(和田峠、笠取峠、碓氷峠)を抱え、標高は約650から1,000mの山間部の高冷地のため東海道や中山道の他の地域と比較して宿場の規模も小さく、北には古来より噴火を繰り返していた活火山の浅間山、中央には「近郷無類の荒川」と謂われた千曲川が流れる。
 大田南畝は大坂銅座の任期を終えて中山道経由で江戸へ帰る道中を『壬戌紀行』に綴っており、東信州中山道の宿場の情景を長久保、芦田、塩名田、沓掛について「宿駅わびしき所也」と記している。度重なる飢饉や災害に襲われ、高冷地のわびしい地を旅した人は、何を食して長旅のエネルギーとしていたのか、また宿場を支えた人々の食はどのようなものであったのか。第1章では東信州中山道の概要と気候・地理についてその特徴を述べ、第2章では江戸時代後期に刊行された十返舎一九『方言修行金草鞋 五編 木曾路巻』『諸国道中商人鑑 中仙道之部』、大田南畝『壬戌紀行』、升屋平右衛門『升屋平右衛門仙台下向日記』、金井忠兵衛『伊勢参宮並大社拝礼記行』、望月宿の本陣大森家および八幡宿の本陣小松家に残る古文書から旅人の食について探り、第3章では郷土史家の先行研究からこの地域の食材について調査した。尚、東信州は笠取峠を境に佐久地域と上小地域に行政や地域性が異なるため、今回は佐久地域を中心とした。
 この地では江戸時代前期から浅間山や蓼科山に水源を求め、大規模な新田開発(五郎兵衛新田・御影新田・八重原新田・塩沢新田)が行われた。遠く離れた山からの引水により堰を通ってきた水の温度が上昇し、高冷地の冷害を回避し、内陸性の気候と相まって米の収穫量を向上させた。そのため信濃で最も地主制が発達した。江戸後期には、街道を行き交う人々の需要から多くの酒蔵が誕生する。また、養鯉技術の確立により稲作と並行して水田を利用した養鯉業が盛んになり、佐久地域一帯は佐久鯉の名産地となる。稲作に向かない生産限界地の山間部や浅間根越の三宿(追分・沓掛・軽井沢)では蕎麦が主穀作物だったが、宿場の名物となり消費されていたことが『壬戌紀行』や『諸国道中商人鑑』から窺える。
 信濃で海から一番遠いこの地域のたんぱく源は、川魚や獣肉、昆虫などであった。昭和初期以前には、秋から冬にかけて千曲川の上流(川上村)まで鮭が遡上していた。また、天武天皇より「肉食禁止令」が発布されるが、野生の鹿や猪は殺生禁止対象から外されていたことから、山間部では密かに獣肉が食されていた。江戸時代後期になると江戸で「ももんじや」「やまくじら」と看板を掲げた獣肉鍋屋が登場しているが、『方言修行金草鞋』の長久保宿には「ももんぢいのかうもつであったまるべい」と記されている。『立科町誌』によると最も食された獣肉は兎で、農家ではハレの食材として昭和初期まで食されていた。度重なる災害や飢饉時にはたにし・げんごろ・どじょう・いなご・蜂の子・沢かに・赤蛙・ひき蛙・しまへびなどを食し、飢えを凌いだ。
 また、『諸国道中商人鑑』には江戸で人気の御奈良飯や東海道の名物砂糖餅が追分宿や望月宿の名物と謳われていることから、街道を行き交う人々との交流から江戸をはじめ各地の文化や情報が宿場に集積されていたことが窺える。
 食は日常のあたりまえの事が故、その記録は少ないが、街道を旅した人の記録や刊行物から、東信州中山道ではうどんやそば・御茶漬など手軽に食べられて程々に腹を満たすものが好まれ、3つの峠の茶屋では峠越えのエネルギー源として力餅が名物であるとわかった。そして山や川は災害を起こし人々を苦しめたが、四季折々に採集や狩猟、漁労により恵みを与え、人々は長い冬や飢饉に備え、食物を漬物にしたり乾燥させたりして保存した。そうした先人たちの知恵と工夫は、時を越えて人から人へとこの地に伝承されていた。

原 清美【パネル展示論文】

和の伝統文化コース

このコースのその他作品