(大学院)芸術学分野 五十嵐 実果子 【領域長賞】
ピエール・ボナール《アンドレ・テラスとルネ》 1899-90 年、ゼラチンシルバープリントのネガフィルム、2.5×3.5cm、パリ、オルセー美術館
ピエール・ボナールのアルカディアをめぐるまなざし
—1910年代に制作された装飾画を中心に—
1. 制作研究の概要
本論文は19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したフランスの画家、ピエール・ボナール (Pierre Bonnard, 1867-1947)のアルカディアについて考察したものである。凡そ59年に及ぶ画業の中で多様な様式の変遷を経つつも、ボナールは一貫して緑あふれる自然と、そこに調和するような人物を描いている。本論文では、そのような人と自然との融合というアルカディアを表象したボナールの1910年代の装飾画における植物と人物との描き方を分析しながら、彼の自然・人間・画布を往還するまなざしに焦点を当てた。
本論文の構成は以下の通りである。第1章においてボナールをモダニズムの画家として位置づけることを可能にした知覚にまつわる言説を概観したうえで、そのヴィジョンの核心として捉えられてきたものとはいかなるものであったのかを先行研究を踏まえて論じた。第2章では、スイスの富豪ハーンローザ夫妻に向けて描いた《夏》に着目した。《夏》における装飾性を読み解くと同時に、「装飾」にまつわる批評的言説を確認することで20世紀以降展開されたボナール評価の揺らぎを明らかにした。第3章では、ボナールのアルカディアの中でも中心的なモティーフとして描かれた植物に着目し、草木がボナールのキャンバスにおいて占める位置づけの特異性を浮かび上がらせている。
2. 制作研究の背景・意図
上述したように、ボナールは、多様な様式の変遷はありつつも、その画業の中で一貫して緑豊かな自然とそこに調和する人物とを描いている。このような人と自然との融合は、アルカディアを意識したものと捉えられてきた。例えば2015年オルセー美術館で開催され、その後マドリード、サンフランシスコを巡回した「Pierre Bonnard. Painting Arcadia」展では、クロノロジーやジャンルに即してボナールのアルカディア的ヴィジョンがあぶりだされている。オルセー美術館の館長を務めたギー・コジュヴァルはカタログにおける論考の中で、人間と自然との完全な融合をボナールのアルカディアと定義する。その一方で、サーシャ・M・ニューマン(1984年)やサラ・ホワイトフィールド(1998年)を始めとする特にボナールの画業を辿った議論の中では、20世紀初頭に見られる古典古代の取り込みの一貫としてボナールのアルカディアが見出されている。
ボナールのアルカディアは、これまで図像的源泉や古典回帰の流れとしての説明が中心としてなされてきた。しかし、特にルネサンス頃から19世紀までの、人々の隠棲の場としての性格が色濃いアルカディアと、ボナールが描いたアルカディアとの関係に言及した議論や、アルカディアを構成する人物像と風景との関係という観点での指摘は見当たらない。よって本論文では、ジャン・クレール(1984年)やジョン・エルダーフィールド(1998年)に代表されるような知覚心理学的観点からの考察も踏まえてこれまで空白部分であった当該箇所に光を当てることを目指した。
3. 制作研究の位置づけ
本研究においてボナール作品の人物と植物への着目によって、従来アルカディアを構成してきたモティーフに潜む我々のまなざしの主観性が浮かび上がると同時に、ボナールの絵画実践における植物モティーフの位置づけの独自性が明らかとなった。第2章で取り上げた《夏》では、左右を大きく占める樹木のモティーフが中心の裸婦と対照化されることによってその装飾性が浮かび上がった。第 3 章では、《地中海》や《田園における春の始まり》、《秋、果物の収穫》を対象とした明度と色相の数値的分析や《夏、ダンス》を対象とした素描と完成作との比較によって、人物像と植物モティーフそれぞれに対する異なる試みが見られることが明らかとなった。
ボナール作品において読み取られてきた、またボナールも試みた「慣習を取り除いたヴィジョン」は、モダニズムという大きな渦によって駆り立てられたものとしての側面も有している。他方ボナールのアルカディアは、逃避先という旧来の性格も残存するという点で多重性を帯びていた。
4. 自己評価
本論文では、これまで幾度も論じられてきたボナールのアルカディアを対象として、一方でほとんど指摘されてこなかった植物モティーフの独自性に着目した研究を行った。素描分析や画像解析ソフトによる形式分析、当時の批評の分析、図像分析など多元的な視点で研究を行うことによって、単なる作品研究に留まらない、風景を眺めるまなざしにおける主観性の認識という大きなパラダイムシフトの一片をも明らかにしたという点で意義のある研究であると考えている。
五十嵐 実果子 【領域長賞】
(大学院)芸術学分野
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