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九龍王・曾灶財の筆字グラフィティにみる視覚的歴史

華人のルーツと失われた共同体の記憶

(大学院)芸術学分野 ウエスト香織

九龍王・曾灶財の筆字グラフィティにみる視覚的歴史
~華人のルーツと失われた共同体の記憶~

1. 制作研究の概要
本研究の主題は、1956年から香港の街頭で独自の筆字グラフィティ活動を展開し、国際的に評価され、香港の文化アイコンと称されている曾灶財(ツァン・チョウ・チョイ)、通称「九龍王(King of Kowloon)」の作品と活動の全体像を明らかにし、その文化的・社会的意義を再評価することである。ツァンは約50年間にわたり、およそ5万5千点に及ぶグラフィティを街頭に書き続けた。しかし、書いてはすぐ政府の清掃員に消されることが繰り返され、いまでは公式に保護されている街頭グラフィティ3点と、写真画像や映像資料、晩年に高齢者施設で制作された紙媒体のマーカー作品が残るのみである。
そこで、研究方法としては、書籍、展覧会カタログ、映像資料、新聞記事などから現存するツァンの写真を978点収集し、制作年、場所、対象物などの情報を紐付けてデータ化し、研究の媒体として集計や地図化を行い分析した。特に、1997年中国返還直前にキュレーターのラウ・キンワイによって開催された初個展で発表された写真は、ツァン自身がグラフィティを書いた場所をその都度ラウに知らせて撮影させたものである。よって、本研究ではツァンの主体性が最もよく反映された一次資料と位置づけ、研究の基盤としている。

2. 制作研究の背景・意図
ツァンのグラフィティは、中国返還を契機にキュレーターやメディアから注目を集め、前衛的な「アートや書」として国際的に評価されてきた。また、若者のサブカルチャーの象徴として「逆境に立ち向かう不屈の精神を担う人物」や「香港魂」を体現する「文化アイコン」として評価される一方で、メディアによって「九龍王」として伝説化されていった。しかしこれらは「キュレーターやメディアによる商業目的の解釈であり、『國皇』を自称した『狂人』が、香港中に執拗に書き残したものにすぎない」、とみなす見方との間で物議を醸してきた。
一方、香港立法会は市民の要望に応じてツァンの街頭グラフィティ3か所を保護対象とし、「墨跡」と定義することで違法性を事実上中和したものの、その価値や意義については学術研究に委ねるとして言及しなかった。しかし、研究者間ではツァンのグラフィティが「そもそもアートなのか」という基本的認識すら共有されておらず、議論が続いている。
本研究では、こうした評価の矛盾や議論を課題として引き受け、東西文化の交わる香港の地域性による多様な文化や価値観、ツァンに関する一次情報の不足、加えてこれまで彼のグラフィティ作品自体の十分な研究が行われてこなかったことを要因と考え、ツァンが「何を」「どのように」「どこに書いたのか」を探求した。

3. 制作研究の位置づけ
本研究の特徴は、これまでの伝説化された「九龍王像」や、前述の「國皇を自称した狂人が香港中に無作為にグラフィティを書いたにすぎない」という否定的評価だけでなく、アートや書、または文化アイコンとしての国際的評価からも一旦距離を置き、ツァンの筆字グラフィティそのものに着目した点である。
本研究の学術的意義は二つあげられる。一つ目は、ツァンに関する先行研究を4つに整理してその複雑な評価構造を可視化し、作品そのものに対する研究や一次資料の不足という課題を明らかにしたうえで、ツァンの作品に関する「メタデータの構築と分析」という新しい研究方法を実践した点である。二つ目は、実践で得た知見をもとにツァンのグラフィティを一人の声なき個人の体験を通じた「記憶」を託した「記録」と捉え、「視覚的歴史(Visual History)」として再解釈した点である。
また社会的意義としては、この考察を通じて、違法性を伴うグラフィティが、社会の周縁に置かれた人々の声を可視化する手段となり得ること、さらに都市に刻まれた「非意図的な歴史資源」として文化的・社会的価値を持つことを示した点であるといえる。

4. 自己評価
本研究では、ツァンのグラフィティ写真をデータ化し、集計や地図化といった再現可能な分析手法を用いたことで、彼の活動内容や特徴、主体性を明らかにすることができたと評価できる。また、ツァンのグラフィティの歴史的背景や文脈を検証することで、彼が決してマイノリティーな存在ではなく、歴史に埋もれた香港の声なき人々の一人であることを示したことで、彼のグラフィティが「視覚的歴史」として文化的・社会的意義を持つことを提示することができた。これにより、従来の「九龍王像」を再解釈する可能性につながる成果をあげられたと考える。
一方で、ツァンのグラフィティがポストコロニアル香港に与えた影響については、十分に検証するには至らなかった。今後の課題として、ツァンのグラフィティを現在注目されている香港のストリートアートと比較し、「視覚的歴史」という観点から両者の共通点や相違点を明らかにし、ツァンのグラフィティの次世代への継承の可能性を探求することが求められる。

ウエスト香織

(大学院)芸術学分野

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