中濱万次郞と小笠原
『傭外国水夫捕獲事件』の万次郞自著部分の考察を軸に
歴史遺産コース 轟木洋子 (とどろきひろこ)
同窓会賞
【作品への思い】
幸運にも私は「万次郞資料調査団」の一員として、中濱家所蔵のジョン万次郞(中濱万次郞)と、彼の長男・東一郎(高名な医師)の資料調査およびリスト作成に加わることができました。
論文では、この調査時に私をもっとも引きつけた古文書『傭外国水夫捕獲事件』に焦点を当てました。というのは、ここには万次郞がアメリカから帰国して幕臣となり、小笠原の開拓事業(1862年)に通司として赴いた父島・母島で記した「自筆」の文書(フィールドノート)が綴じ込まれていたからです。
当時の小笠原島民は、欧米や太平洋などの諸島出身者のみで日本人はいませんでした。この時の事業については、公文書である『小笠原開拓掌記』(国立公文書館蔵)に詳しく記されています。しかし、それは漢字・カタカナ・漢数字だけの縦書き文書です。一方、万次郞のフィールドノートには、これらに加えてアルファベットやアラビア数字でもメモが付されていました。この自筆メモを含んだフィールドノートを翻刻・現代語訳することで、当時の島民の名前や出生地、彼らが小笠原に至るまでの経路等を明らかにすることができました。例えば、公文書にシャムシャム島とあるのはSimpson Island(現在のキリバス共和国)であり、ケープウハータは現在のケープベルテ共和国、名前も、シャムは「サム」、ムラヤは「マリア」という具合に。公式ではないメモ付き一次資料であったから分かったことでした。
翻刻では苦労もしました。どうしても判読できない文字については指導教官である石神先生にも教えを請いました。また、シャムシャム島やセントイス島、ケープウハータ等がいったいどこなのか、最初は皆目見当がつきませんでした。しかし、ふと万次郞が帰国前に廻った太平洋・大西洋の絵図を眺めていたら、偶然にもそのルートから探し出すことができました。
この古文書には、上記の開拓時の文書以外にも、翌年、万次郞が捕鯨事業で小笠原を再訪した際に起きた事件(傭い入れた外国人水夫が窃盗を働き、万次郞が捕獲した事件)に関する島民の証言録も含まれています。翻刻と現代語訳は終わっていますが、こちらの研究については、今後の課題としたいと思います。
【作品の要約】
本研究は、幸運にも加わることができたジョン万次郞こと中濱万次郞(1827〜98)の子孫宅に遺された遺品の調査時に、偶然筆者の目に留まった冊子『傭外国水夫捕獲事件』(未公開)を翻刻し、考察を行なったものである。具体的作業としては、本冊子の意義を理解するうえで、前提となる万次郞と小笠原諸島との関係、また小笠原領有の歴史と当時の状況をも併せて紐解くことで、本冊子に記述された内容について明らかにし、万次郎の活動について、新たな光をあてることを試みたものである。
万次郎は1841年に14歳で漂流した後、米国捕鯨船に救助されて東海岸で高等教育を授かり、捕鯨船員として経験を積んだ後 1851 年に帰国する。その語学力や能力を買われて幕臣となると、捕鯨御用、軍艦操練所教示方などとして活躍する。
一方の当時の小笠原諸島は、明治9(1876)年まで、その領有権は曖昧なままであった。田中弘之らの研究によれば、16 世紀から 19 世紀初頭にかけて、西、露、英、米の船が訪れて記録を残し、また仏や独は林子平の『三国通覧図説』を引用し、紹介しているという。この無人諸島に初めて植民が行われたのは 1830 年である。最初の居住者はハワイ王国を発った米人2名、英人2名、デンマーク人1名、そしてカナカ人(太平洋諸島民)20名の、男女計25名だった。1853 年には、来日直前のペリー艦隊が寄港し、提督が父島の広大な土地を 50 ドルで購入している。
先行研究によれば、万次郞は日本帰国前に、米国捕鯨船の乗組員として小笠原に 10 日ほど滞在したが、帰国後も、1862 年に幕府開拓団の通弁として、1863 年に捕鯨船長として、2 回渡航した。『傭外国水夫捕獲事件』は、万次郞長男の東一郎(1857〜1937/東大医学部卒・医師)が、父が遺した小笠原関連文書を和綴じにした冊子である。その表紙には、「東一郎記」として「初より二枚は先考の自著 次の外人の姓名和洋共」というメモが貼付けられ、その「二枚」が終わるページには「計二枚先考の筆」という付箋がある。「先考」とは万次郞のことで、右(表紙)から開くと縦書きの日本語、左(裏表紙)から開くとインクの横書き英語で記され、17枚のみの冊子である。この冊子のタイトルから、幕臣の万次郞2度目の渡航の際、2名の米国人が窃盗を働き、それを万次郞が捕らえて横浜の米国領事館につきだした、所謂「ホーツン事件」の記録かと思われた。
しかし、万次郞自著とされる「初より二枚」を翻刻すると、少なくともこの自著部分は外国水夫捕獲に関するものではなく、1回目の開拓団として渡航した際の記録であることが分かった。
その一枚目は、母島のリーダーであったマツレシとアレンの証言録である。マツレシは 1810 年ロンドン生まれで、妻はシャムシャム島出身である。アレンはゼルマン国(ドイツ)で1830年に生まれ、ハナロロ(ホノルル)経由で移住している。また、東一郎が「次の外人の姓名和洋共」と添書きしている、母島住民 14 名のリストは、国立公文書館所蔵の開拓団の公式文書『小笠原島開拓掌記』にも収められているが、これには平仮名、片仮名でしか書かれていないのに対して、万次郞のメモには、アルファベットにより住民の名前や出生地が書かれていた。例えば、マツレシは Mortley(モートレイ)で、「シャム、ムラヤ、ケラ」などの名前は、アルファベットから現代風に書くと「サム、マリア、ケイティ」など、親しみのある西洋風の名前となる。マツレシ夫妻、アレン夫妻以外の住民の出生地はいずれもシャムシャム島(万次郞メモは Simsom Island と記述)となっている。これらがどこを指すのかについて検討したところ、万次郞帰国後に土佐の河田小龍によって聞き書きされた『漂巽紀畧』に所載の地図から明らかになった。それは、現在のキリバス共和国の島で、かつてSimpson島と呼ばれたアベママ環礁であった。
さらに二枚目は父島在住の住民証言であり、このうちの一人はポルトガル国所領ケイープウハータ島で出生と書かれている。これも『漂巽紀畧』の地図と照合したところ、現在のカーボベルデ(ケープベルデ)共和国であることが分かった。キリバスもカーボベルデも、当時の捕鯨船の寄港地であり、万次郞も訪問していたことが他の記録にある。
以上、発見された冊子の翻刻と考察により、それまで「太平洋諸島出身者」としてしか判明できなかった人々が、ハワイだけではなくキリバスからも、また欧米系と言われた人の中には、北西アフリカ沖のケープベルデ出身の者もいたことが明らかになった。これまでの小笠原諸島の研究では、個々の太平洋諸島民の出生地が書かれたものはなく、新たな知見を提示した。くわえて、この冊子の英文部分についても翻刻および日本語訳を行ったところ、こちらはホーツン事件に関する島民からの証言であることが分かったほか、自著以外の和文の内容は、これらの英文の日本語訳であることも明らかとなった。
研究対象とした本冊子は、万次郞によるアルファベット混じりで遺したメモ的史料ではあるが、公式文書には記されない、新たな事実を明らかにすることができた。今後ともさらに中濱家史料の調査・分析を進め、新しい知見の発見に邁進していきたい。
『傭外国水夫捕獲事件』の表紙。右下に、万次郞長男の東一郎が「初より二枚は先考(万次郞のこと)の自著」などメモを付している
万次郞自筆の母島住民リスト。漢字カタカナに加えて、アルファベットやアラビア数字でも記されている
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