紙と文字を悼む文化
長崎・聖福寺の「惜字亭」を訪ねて
アートライティングコース 石井 佳代子
学科賞
【概要】
(簡潔な内容)
清朝末期の史学者・王国維の漢詩に出会うことで、かつて「敬惜字」(けいせきじ)という文化があったことを知った。敬惜字は文字の書かれた紙を愛惜し惜字炉(せきじろ)という炉で燃やす儀礼で、中国で明代に始まり宋代ごろより文昌神信仰と共に全土に広まった。日本にも江戸時代末期に伝わり、長崎と大阪に一基ずつ沖縄には数基残っている。紙と文字を愛おしむ文化に心が魅かれ、長崎市、聖福寺の「惜字亭」(1)を訪ねてみた。
紙が貴重であった時代、反故紙(ほごし)(2)を丁寧に弔ったという文化があったことは自分にとって麗しく思えたのだが、日本にそれが溶け込むことはなかった。日本には古来より還魂紙(かんこんし)と呼ばれるリサイクル紙があり、反故紙は漉き返して大切に使うものと考えられてきたのだ。
中国の敬惜字と日本の還魂紙を比較しつつ、両方の紙と文字への独特な関わり方を紐解いていく。そして聖福寺の「惜字亭」についての記録を残し、効率化が優先される今の時代に手間をかけて「紙と文字を愛惜すること」について思いを寄せようと考える。
(意図と目的)
AI万能へ向かう現代、紙と文字に対する愛情など時代のスピードから置き去りにされそうだと感じる。しかし敬惜字の文化と出会ったことで、紙と文字を捨てる行為に手間と時間をかけ「悼む」という文化が存在したことを知った。
長崎にある聖福寺の「惜字亭」を訪れたことをスタートとし、中国から敬惜字文化が日本に伝えられたことの記録を掘り起こし、なぜ日本に受容されにくかったのかと問いをたて、中国と日本の紙と文字を思う文化の違いと共通する思いを考えてみようと意図した。
そして最終的に、発祥の地である中国からも消えつつある敬惜字という貴重な文化と長崎の「惜字亭」を記録し、情報があふれ時間の流れが加速する日々の中で立ち止まり、敬惜字の意味に気づくことを目的とする。
(全体の章立て)
1.海を見おろす炉(惜字炉との出会い)
2.文字と炎(中国の敬惜字)
3.紙と水(日本の還魂紙)
4.沈黙する言葉(敬惜字と還魂紙)
5.長崎の灯かり(再び「惜字亭」)
【本文】
1.海を見おろす炉
飛行機が高度を下げ始めるとまもなく「長崎空港は晴れ、気温は30度」と機内アナウンスが流れた。眼下には大村湾の海面が輝いている。湾の中に作られた空港は現代の出島のようだ。山が海にせまる狭い土地にはびっしりと建物が立ち並び、その間を縫うように路面電車が走る。目指す聖福寺はあのあたりかと、山のふもとに目をこらし胸が高鳴った。
私の長崎への思いは、小津夜景の著書『いつかたこぶねになる日』を読んだ数年前に始まる。そこには清朝末期の激動の時代を生きた王国維の詩が紹介されていた。
『書古書中故紙』
昨夜書中得故紙
今朝随意写新詩
長損篋底終無恙
比入懐中便足奇
黯淡誰能知汝恨
沾塗亦自笑余痴
書成付與爐中火
了却人間是與非 (3)
七言律詩という形式の美しい漢詩である。小津夜景氏の訳(4)を参考に読みとると「ひっそりと本の間に隠れていたのに、ひょんなことから人間に見つかってしまった紙。そんな紙に縁を感じて心に浮かぶ詩を書きとめたが、ああ、紙を黒々と汚してしまっただけだったよ、と最後は潔く炎の中へ葬った」となるだろうか。王国維は清朝末期の史学者で、王朝滅亡後も辮髪(べんぱつ)(5)を切らなかった忠義の人であった(6)。この詩の書かれた頃の中国は社会体制の大きな転換期に差しかかっており、王国維は紙と文字を愛惜しつつ自らの運命を炉にくべた紙に重ねているようにも思える。詩中にある「爐」とは惜字炉のことで(7)、紙と文字を悼むための焼却炉があったことを私は初めて知ったのだった。
AI万能の時代へとシフトしていく今の世の中で、なにかを惜しむ心など取り残されていく気がしている。だが紙と文字を悼むという切なく美しい行為は生身の人間だけが出来ることであり、それは効率化が声高に叫ばれる現代で人の手が燈す小さな灯のように思えた。惜字炉は江戸末期に日本に伝わり、中国文化の影響が強い長崎と大阪に一基ずつ、沖縄には数基が残っている(8)。惜字炉を見てみたい。文字と紙を天へ送ったその痕跡を訪ねてみたい。そう願う自分に長崎への旅は思いがけずやってきた。長崎の実家を片付けに行く友人が、一度自分の故郷を見せたいと誘ってくれたのだ。その誘いは自分にとって運命のようにすら感じられた。
聖福寺の急こう配の階段を上り、山門を背に振り返ると長崎港が見えた。今は港も整備され大型船も入るが、昔はのどかな漁港だったのだろう。唐船が入港するときはさぞかし賑わったに違いない。この陽光きらめく港を見下ろし、どんな思いで紙を悼んだのか。聖福寺からの風景は『長崎名勝圖繪』にも残る絶景で、開創の僧、鐵心禅師が『聖福寺八景』という詩をよせている。訪れたのが夏も真っ盛りという日だったこともあり『寺前夏市』と名づけられた一節に心が躍った。
「唐船南風を窺ひて夏に乗じて所に至る。国商競い聚(あつ)まって貿易す。然して寺は高岡に在って、伏して街市を瞰(ながむ)るなり」(唐船が南風を窺って夏にやって来る。商人たちが競って集まり交易する。それでこの寺は高い丘の上にあって、その町の賑わいを眺めることができる)(9)
昔の港の情景を心に描きつつ「さあ惜字炉はどこ?」と意気込んだものの、あっけないほど簡単に山門脇の小さな庭でそれは見つかった。八角柱で高さが1メートルほどの小さな焼却炉。くすんだピンク色の漆喰の一部は剥がれ落ち、中の煉瓦が見えている(写真1)。これが長いこと訪れたかった惜字炉なのだろうか。炉は周囲を雑草に囲まれて、誰からも忘れられているように見えた。
惜字炉が唐人信徒によって聖福寺に寄贈されたのは1866年のことで、炉は「惜字亭」と名づけられた。長崎の唐人たちには出身地ごとに幇(ハン)という集まりがあり、聖福寺は主に広東の出身者および幕末以降の唐人を受けいれていた(10)。中国本土、特に西南部には「字庫塔」と呼ばれる惜字炉が多く、聖福寺の「惜字亭」も広東と周辺の出身者によって寄進されたようである(11)。当時、長崎の唐人は厳しい外出制限を強要されていたが、寺社への参拝などは比較的ゆるやかに許されていたので、唐人屋敷に隔離されていた人々は聖福寺へ行くと申し出ては、長崎の街歩きも楽しんでいたのだろう。
それにしても、と考えた。中国の文化は隠元が広めた喫茶の習慣が有名だが、敬惜字の文化はなぜもっと日本人の間に広がらなかったのだろうか。日本にも紙や文字を敬い大切にする文化的基盤は、長い歴史を見ても充分にあるはずである。それに人以外の生き物や物の供養碑も、日本全国の津々浦々に見受けられるのだが(12)。夕暮れの光の中にひっそりと立つ聖福寺の「惜字亭」を眺めながら、心は「なぜ?どうして?」の疑問でいっぱいになっていった。
長崎から帰る日、空港に向かう私の足どりに旅の終わりの清々しさはなかった。読みかけの本をどこかに置いてきてしまったような気持ちになったのは、「惜字亭」のことがずっと頭から離れないからだった。
2.文字と炎
紙と文字を愛惜して燃やすという儀礼はそもそもの成立の時期を確定することができないが、中国の宋時代に始まり、明・清時代に発展したらしく、中国の文昌神信仰とかかわりながら庶民の間の道徳的な習慣として広まったと考えられている。文字の書かれた紙は捨ててはならず、必ず燃やして灰は水に流さなければならないという「敬惜字」の思想に基づいている(13)。
中国の漢字は甲骨文字や金文(14)から発達したもので、ひとつひとつの文字に奥深い意味がある。文字の始まりは占いのために亀の甲羅に刻まれたものであり、霊性が具象化されたものだったので、文字そのものに人々は呪術的な気を感じていたのではないだろうか。ソグド人によってもたらされたゾロアスター教の祭儀が、宋代には中国本土の儀礼に吸収されるようにもなったため(15)、文昌神信仰や敬惜字の思想とも響きあい、字紙を燃やす行為が文字の持つ祈りも呪いも欲望さえも浄化できると考えるようになったのかもしれない。
文昌神は道教の神様のひとりで、日本の天神様のように学問の神様としてあがめられ、ひそかに科挙合格者のリストも持っていると伝えられていた。人材登用のシステムであった科挙制度は、随代から始まり宋代に完備され、元代には一時中止されたものの末期に復活、清代末まで続いた。明代以降の中国では税金と賄賂の区別があまりなく、ひとりが科挙試験に合格して税を集める官僚になれば、その一族は栄誉だけでなく莫大な賄賂によって豊かさも保証された(16)。逆に試験に落ちれば「淫を行った」「敬惜字が不適切だった」と蔑まれることすらあったので、文昌神にすがり敬惜字の教えを守ることに人々は必死であった。惜字炉は寺院や市中に公共施設として置かれ、裕福な家庭ではその庭にも作られた。因果応報という中国思想の見方から、一般的にも敬惜字によって幸せが約束されると信じられ「敬字会」という名の集団もでき、敬字会や科挙受験者の親たちが町中で競うように紙を拾っては惜字炉で焼却していたようである(17)。
かつて中国、台湾では至る所に惜字炉があったというが、現在では中国で十数基、台湾には百九基、華人社会のあったベトナムとミャンマーに数基、日本では大阪、長崎に一基ずつと沖縄にも数基を確認できるのみである。最も多く残っているのが台湾である(18)。19世紀末に移住した漢民族が、武術を重んじ学問を好まない先住の民の文化教育のために、習慣として敬惜字を広めたのだった。現在、発祥の地である中国よりも惜字炉が多く残っているのは、時代の皮肉のようにも思える(19)。
3.紙と水
日本人の紙と文字との関係は、長い歴史のなかでどうだったのだろう。日本は文字の書かれた紙や書籍を大切に扱う習慣が古代からあり、古典古書が残っていることにおいては世界有数であるという(20)。
日本における製紙の始まりは『日本書紀』の中にあり、推古天皇の時代に高句麗から渡来した僧曇徴(どんちょう)が、紙や墨を作ることができたと記されている(21)。これを製紙の起源とする説もあるしそうではないとの説もあるが、古代中国で製紙技術は国家機密であったため、「曇微が国禁をおかして製紙を伝えました」などと公の文書に簡単に残せなかったのだろう。その後、仏教の伝播とともに写経が盛んになり国家としての法律も整い、紙は寺院でも役所でも急激に必要とされ、都を中心として紙漉きの技術はひろがっていった(22)。
まだ雪の残る三月、紙漉きの工程を見ようと福井県「越前和紙の里」を訪れた。九頭竜川の支流、鞍谷川(くらたにがわ)一帯には、五十軒以上の紙工房が立ち並んでいた。遠く鳥の声が聞こえ、風は冷たく澄んでいる。空気に騒々しさがないのは、製紙の工程のほとんどが人の手で行われるためだと気がついた。鞍谷川源流近くには、岡太神社・大瀧神社(おかもとじんじゃ・おおたきじんじゃ)が「紙祖神」と呼ばれ大切に祀られていた(写真2)。工房では、楮や雁皮などの材料、それらを煮沸して汚れを除く工程、粘液を作る様子、紙漉きまでが見学できる(写真3)。すべて時間も労力もいる作業で、出来上がった紙をおろそかには扱えないことがよくわかる。
京都市北西部を流れる紙屋川(かみやがわ)のまわりには、平安時代、紙の工房が多く集まり朝廷や貴族が使う紙が作られていたようである(23)。ここでは一度使われ不要となった反故紙も大切にされ、細かくして水にさらし、再び液状にして漉き返すということも行われていた。墨がついたまま溶かされるので真っ白にはならず、薄い色が残った紙は「還魂紙」と呼ばれた。「モノ」には「タマ(魂)」が宿るという感覚に長けた日本人らしい呼び方である(24)。
日本の勅撰史書のひとつである『日本三大実録』に清和天皇の女御であった藤原多美子についての記述があり還魂紙が登場している(25)。岡田英三郎著『紙はよみがえる』に現代語訳があるので、一部を抜粋したい。
「右大臣藤原良相の娘であった多美子は、貞観六年(864年)正月に元服した清和天皇の後宮に入り、女御となった。清和天皇は数ある女性の中で特にこの多美子を愛した。天皇が仏門に入ると、自分も出家して尼となった。清和天皇が崩御されたときに、それまでにいただいた手紙類を集めて再生して紙とし、法華経を書写した。このことを聞いた人々は大いに感動した」(26)
藤原多美子のエピソードは尾ひれがつき、『今鏡』や『吾妻鏡』では、その紙は薄雲のような色をしていたとか、清和天皇からの手紙を入れた箱が百もあったとか、原典にはない記述も加えられどんどん美化されていったようだ(27)。藤原多美子より後の中世、故人の残した手紙を漉き返して写経することはひとつのブームになって東国へも伝わったようである。
私の住む神奈川県には金沢北条氏の残した和漢の蔵書や書状が、「金沢文庫」という資料館に残されている(写真4)。鎌倉時代にも紙が貴重だったことは言うまでもなく、保存されている書状のほとんどは「紙背文書」(しはいもんじょ)と呼ばれるリサイクル紙である。学僧たちが書写の練習や法脈のメモに使った紙を大切に保管し、二枚重ねにして補強し裏面を再利用していたのだ。こうした紙は手紙や手習いに使われていたが、表の文章がそのまま残っているので、両面から史実の経過などがわかり興味深い。この金沢文庫に、北条実時の子孫貞顕が父である顕時の手紙を集めて漉き返し、写経したといわれる『円覚経』が残っている。ところどころもとの文字の痕跡が見えるので、漉き返しの技術が未熟であったのかと思ったが、顕時を忍んで文字の面影が表れるように、わざわざ手紙を十分にほぐさず漉き返したのではないかという見方もあるようだ(28)。
江戸時代の『人倫訓蒙図彙』(ジンリンキンモウズイ)には、反故紙などを集めて「直し屋」へ売り渡す紙屑買いの女性の様子などが描かれていて(29)、紙の漉き返しが庶民にも広まっていったことがわかる。
4.沈黙する言葉
故人ゆかりの紙を還魂紙と呼び写経するという感傷や、神様を「紙祖神」と呼んで大切に祀る習慣、手漉きの手間暇のかかる工程など、日本人が紙に対して持ち続けた態度を見て、改めて中国の敬惜字という儀礼が日本に広まらなかったのは何故かと考えると、字紙を「燃やす」という行為などはとても受け入れられそうにないと思えた。日本に「何でも供養」の文化があったとしても、紙に対して当てはめることはできなかっただろう。
そんな日本も、明治維新後は一気に産業の近代化と文化の欧米化が進み、人々の価値観は大きく変化した。特に朝鮮戦争による軍需景気以降は大量生産大量消費が当たり前となり、「モノにタマ(魂)が宿る」などという感性は吹き飛んでしまったようだ。
中国に目を向ければ、清王朝はその末期にアヘン戦争や太平天国の乱などの戦乱が続き、さらに諸外国の侵攻をうけ、1912年皇帝退位が宣言されて二千年にわたる歴史を閉じた。続く中華民国の成立、日本の侵略、1966年の文化大革命と、社会変動と近代化の波が次々と押し寄せる中、時代の流れと敬惜字の思想は方向を別にしていってしまった。
清朝終焉後の1927年、王国維は北京の頤和園にある昆明湖に身を投じて命を絶った。自死の動機については遺書もあり様々な憶測もされたものの、真実は今も明らかではない(30)。王国維の心の真実はどうだったのだろうと考えるうちに、ふと『書古書中故紙』の「了却人間是與非」(人間の善と悪もろとも葬ってしまった)(4)という一節が心に浮かんだ。謎とされた王国維の真意、それは文字と紙に託され惜字炉の炎に投げこまれてしまったのではないだろうか。
ならば、と数々の疑問が心に沸き起こる。北条執権時代の末期、多くの反故紙が紙背文書として使われていたにもかかわらず、金沢貞顕が父顕時の手紙をわざわざ水に溶かして還魂紙としたのはなぜ?その手紙には、父が息子だけに明かせる一族の騒動や自らの流罪の真実が記されていたからでは?藤原多美子が愛する帝からの大切な手紙を手元に残さず、わざわざ漉き返したのはなぜ?幼帝として立ち、権力を巡る謀反の嵐に立ち向かって挫折した清和天皇の手紙には、誰にも語れない無念の思いが綴られていたからでは?
表向きの歴史の陰で、紙と文字には多くの真実が託されてきたのではないだろうか。そしてそれらは当事者たちの手で大切に弔われてきたのではないか。敬惜字と還魂紙、初めはまったく方向の違う文化に見えた。しかし理不尽な時代を生きなければいけなかった人々にとって、「紙と文字を悼むこと」は深いところで同じ意味をもっていたに違いない。炎にくべるにしても漉き返すにしても、思うようにならない運命の中、明らかにできない真実を昇華させるために人々は手間も時間もかけてきたのだった。
5.長崎の灯かり
明代後期から中国で活動した西欧の宣教師たちは、多くの中国研究を残しており、敬惜字については「エキゾチックで奇習のようなもの」という印象をもったようである(31)。しかし、すっかり西洋化された生活を送っていても、自分は敬惜字を「奇習」とはとても思えない。それは、記号として発達したアルファベットを使う西欧人とは違い、漢字という豊かな意味が内在する文字が自分の精神基盤となっているからなのである。漢字文化圏だけに惜字炉が存在しているのも、漢字を使う人びとが文字に心を共鳴させることができたからではないだろうか。
情報があふれAIが瞬く間に解答をただき出す時代である。しかし形だけが整えられた解答に納得できるほど、人の心は単純だろうか。それよりも答えを見出すことが出来ず、心の有象無象を紙と文字に託して悼むという身体的な行為にこそ、救いの灯りがあるように思える。かつて惜字炉は現世と浄化された世界の間にある境界であった。人は境界を訪れて自分自身の言葉を煙にし、その思いを愛惜することで救われてきた。そんな救いの炎が長崎に灯っていたことが、私には宝物のように思えるのだった。
長崎の黄檗宗寺院は、財政のほとんどが唐船や唐人からの無制限の寄進によって支えられていたため、江戸時代にはかなり潤っていいた。しかし明治維新以後の長崎貿易の急激な縮小、原爆投下の打撃により、聖福寺については伽藍の維持すら困難な状態が続いていた。2020年、やっと文化庁への申請が許可され、国指定重要文化財である大雄宝殿(本殿)など四つの伽藍が修復されることとなり、私が聖福寺を訪れた2023年の夏は、ちょうど山門の修復が始まったところであった。しかし工事の進捗状況を知らせる寺院のホームページに「惜字亭」の文字を見つけることはできない。ならば聖福寺の「惜字亭」が朽ちてなくなりませんように、敬惜字という文化が長崎の地にもたらされたことが後世にも伝わりますように、と祈りながらここに記録を残しておきたい。
旧正月に催される長崎ランタン祭を見るため、飛行機のチケットを予約した。冬空の長崎港を眺めること、ランタンの灯かりに照らされた唐人屋敷を歩くこと、そして何よりも聖福寺の「惜字亭」を再び訪れることを楽しみにしつつ、この紀行文を締めくくりたいと思う。
【作品への想い】
2026年の冬、再びランタン・フェスティバルに照らされる長崎を訪れた。紀行文の始まりとなった聖福寺にある「惜字亭」を再び訪れることが旅の大きな目的である。3年前「敬惜字」の文化を知り、文字を悼んだ場所を訪れてみたいという想いがおこり、それが自分の身体を動かし、そして手を動かし、この紀行文を書くことができた。
漢字を使う人たちが文字のひとつひとつに深い意味と霊性を感じて、大切に字紙を愛惜していたことを知ることができたという胸が熱くなるような経験、紙と文字を悼むことが内包する深い意味、中国からも消え去りつつある「敬惜字」の文化が長崎に伝わったことを記録に残したいという想い、そんな紙と文字を悼む文化を巡る旅から得たたくさんの歓びを、色とりどりの長崎の卓袱(しっぽく)料理のようにこの紀行文に詰め込んだ。
長崎・万寿山聖福寺の「惜字亭」筆者撮影。
石井 佳代子
アートライティングコース
2023年の春、定年退職を待って大好きなアートの勉強をしたくて、京都芸術大学に入学しました。女子美術大学で染織を学んだあと、テキスタイルデザイナーとして5年働き、その後は結婚して夫の仕事の都合で海外転勤を重ね、帰国後は金融機関に20年間勤務しました。
好きなことは、本を読むこと、チェロを弾くこと、昼寝をすること。そして珈琲とシュークリームがあれば幸せです。横浜在住で地域の市民オーケストラでチェロを弾いています。
大学の学びでは、たくさんの驚きと感動、問いをたててそれを追求することの面白さに出会うことができました。卒業後はこの経験を礎に、まだ知らないたくさんの文化と出会えること、それを深く掘り下げていくことを楽しみにしています。
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