フェノロサは何を成し遂げたのか
狩野芳崖《仁王捉鬼図》を通して
芸術学コース 吉森正浩
学科賞
「卒業成果物」要約
本論文は、明治期日本美術の再興に大きな役割を果たしたアーネスト・F・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853年-1908年)について取り上げ、フェノロサと狩野芳崖(1828年-1888年)の関係と、両者の協働によって生まれた《仁王捉鬼図》(1886年(明治19年))を通して、近代日本画の成立過程を考察し、フェノロサが現代日本美術に果たした役割について考察を行ったものである。
フェノロサは1853年にマサチューセッツ州セーラム市で生まれたアメリカ人であり、ハーバード大学卒業後の1878年(明治11年)に、東京大学の教授として来日した。当初は日本美術の真贋にこだわらず蒐集を始めたが、次第に鑑識眼を磨き、美術品の体系的な分類や研究を行うようになり、日本美術のことならフェノロサといわれるようになってい
く。フェノロサの活動は、明治維新後の極端な西洋化の中で軽視されていた日本美術の価値を再認識させる契機となった。
フェノロサは岡倉天心らとともに龍池会や鑑画会で活躍した。フェノロサは1882年(明治15年)の龍池会での講演で絵画における妙想の重要性を説き、西洋画に比べ日本絵画が優れていることを主張し、日本絵画再興を訴えた。この講演で「日本画」という言葉が初めて生み出された。『美術真説』はベストセラーとなり、これを契機に日本美術が再評価されることになる。また鑑画会での活動が後に東京美術学校が開校される契機になったといわれている。
一方、狩野芳崖は長府藩の御用絵師の家に生まれ、狩野派の伝統を受け継ぐ絵師であったが、明治維新の混乱で一時困窮する。しかし、フェノロサとの出会いによって再び絵師としての道を歩み始め、フェノロサの支援のもとで新しい日本画の創造に取り組むことになる。芳崖は狩野派の伝統を受け継ぎつつも、フェノロサの指導の下で新たな表現を模索した。
フェノロサと芳崖の出会いは1882年であった。フェノロサは芳崖の画才を見抜き、生活の支援をしながら画業に専念させた。両者の協働による実験的な作品群は、特に仏教主題の絵画が多く、《仁王捉鬼図》はその代表作である。フェノロサ自身が仏教に傾倒しキリスト教から改宗したこともあるが、フェノロサが宗教画の持つ力を理解していたことが背景にあったと考えられる。また、《仁王捉鬼図》は西洋絵具を用いた極彩色の異色の作品であり、それまでになかった、伝統と革新が融合した作品であった。
《仁王捉鬼図》は1886年(明治19年)の第2回鑑画会大会に出品され、一等賞を受賞した。筋骨隆々の仁王が邪鬼を捉える姿を中心に、鮮やかな色彩や西洋的な遠近法、装飾的なモチーフが特徴的であり、従来の日本画にはなかった斬新な表現が高く評価された。仁王という主題は、仏像彫刻では一般的だが絵画では珍しく、芳崖は鍾馗図などの伝統的モチーフを参考にしつつも、独自の解釈で新たな主題を生み出した。
また、《仁王捉鬼図》の制作背景には、明治期の日本が直面した西洋化への危機感や、国粋主義の台頭があった。仁王が邪鬼(西洋的な要素を象徴)を退治する構図は、日本美術の存続と再興への強い意志を表している。芳崖自身が長府出身で尊王攘夷の精神を持っていたことも、主題選択に影響した可能性がある。
フェノロサは、日本画の革新には西洋画の技法も積極的に取り入れるべきだと考えていた。彼の理論と芳崖の画力が融合し、《仁王捉鬼図》のような新しい日本画が誕生した。本画の成功は、東京美術学校創設や日本画の地位向上にもつながった。
しかし、フェノロサは1890年(明治23年)にアメリカに帰国し、その後は日本美術界での影響力を徐々に失っていく。岡倉天心ら日本人が美術行政を担う時代へと移行し、フェノロサの役目は終わりを迎えた。
フェノロサは自ら蒐集した日本古来の貴重な美術品を自国に持ち帰った負の側面を持ってはいるが、日本美術の恩人であることは間違いがなく、その功績は計り知れない。そして、フェノロサが指導し、芳崖が創り上げた《仁王捉鬼図》は、伝統と革新、西洋と日本、理論と実践が交錯する中で生まれた近代日本画の金字塔であり、今日に至る日本美術の礎となった。
フェノロサが、《仁王捉鬼図》を通して、現代に至るまで日本美術界に大きな足跡を残したことは明らかであり、フェノロサが「日本美術の恩人」と称されるのは決して過大な評価ではないと結論できる。
吉森正浩
芸術学コース
会社を経営しながら3年間芸術学を学びました。絵画鑑賞が好きで、より深く鑑賞するのに役立つ知識を得たいと本学で学ぶことにしました。3年かけてじっくり学習することができ、本当に良かったと感謝しております。
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