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『田辺孝子伝』の考察

-丹後田辺藩と領民が目指した孝子道徳とはー

歴史遺産コース 中野 秀行

学科賞

【作品への思い】
『田辺孝子伝』と地方文書を用いて、江戸時代の「親孝行」を深堀していくことにより、個人の親子関係、個人と村の関係、村と藩の関係、藩と幕府の関係などと「親孝行の行い」には、それぞれに思惑や導き、由緒や利益などの背景が存在したことを明らかにした作品です。

【作品の要約】
孝子とは、「親に孝行な人」という意味である。孝行の実話が、伝文としてまとめられた書物のことを総称として「孝子伝」といわれている。「孝子伝」の刊行は、天明・寛政年間(一七八一〜一八〇一)が隆盛期であった。本研究では、『田辺孝子伝』を対象として、その内容の分析とともに、地方文書等を用いて『田辺孝子伝』との比較・対照を行い、考察を深めたい。
『田辺孝子伝』は、丹後国田辺藩(現京都府舞鶴市)藩士広瀬宗栄(むねよし)によって、嘉永四年(一八五一)に、全五巻(善行七十三件収録)が作成された。本研究では『田辺孝子伝』から抽出した、次の三項目の問題点の解明を目指すこととしたい。 
①御用留に記された孝子原文と『田辺孝子伝』の伝文の比較からさぐる著者の意図
② 田辺藩における「孝子表彰と褒賞」の背景
③孝子表彰者の出身地の領内西側への偏りはなぜか
 以上の点に加えて、さらに「領民の共助公助」についても、考察を深めたい。
①御用留原文と『田辺孝子伝』の伝文比較
 上野家文書「孝心之者家業出精之者并難渋人書上帳」(京都府立京都学・歴彩館蔵)には村々の孝子話が書かれ、その中に「地頭村本百姓弥市郎内」という伝文がある。これが『田辺孝子伝』「三十七、地頭村幸七」の原文と考えられる。『田辺孝子伝』には、褒賞に関することが加筆されていたほか、役人と農民の問答も加えられており、親孝行は苦労もあるが、自分も幸が感じられるという趣旨に改変されていた。
②「孝子表彰と褒賞」の分析
 また「一八、中山村輿兵衛妻」では、孝子碑の建立が記述されている。なぜこの地だけに碑が建てられたのだろうか。『西国順礼略打道中記』文政三年(一八二〇)には、西国巡礼者が中山宿で泊まったことが記されている。おそらく、こうした巡礼者らに碑文を読ませ、旅人を介して他国に孝子の名声の拡散を企図したものと推測される。
 「二、岡田由里村武左衛門夫婦」では「年貢永免除」の褒美が贈られている。上野家文書「御免許并除地取調帳」(京都府立京都学・歴彩館蔵)の中には、その褒賞の後の様子を明らかにした史料を発見することができた。
 この文書には、武左衛門の「除地」が記され、どれくらいの期間「年貢永免除」となったのか本文から読み取ることができる。少なくとも寛保三年(一七四三)から明治六年(一八七三)までの百三十年間もの間、年貢免除が継続していたことが明らかになった。
③ 出身地の偏りの分析
 孝子者の約九割が領内西側の出身地に偏っていた。大庄屋の組別に分けると、孝子者が多い地域は「城下町」と「川口中組」となった。この地域に孝子者が多い理由として「心学」との関係を指摘したい。『田辺孝子伝』には、心学との関係が強調される伝文が二件ある。また心学の教えの「天」の付く伝文が四件ある。来藩した心学指導者を史料から確認しても、城下町の「求心舎」「立敬舎」を拠点に領内を巡講していた。彼らが道話を行った村々も、史料の記載を信じるなら領内の西側に偏っていたことが明らかとなった。
領民の共助公助に関する考察
 「九、上漆原村定治郎妻」では、寄合で「定治郎妻の孝行苦労を助けるため皆で物を贈ろう」と声があがった。さらに庄屋が金銭も集めて贈ろうと提案し可決された。この伝文からは、個人の苦労に対する村人の共助の精神が伺える。その後、藩から妻に褒美が贈られ、さらに関わった村人たちに名誉のある言葉が贈られたという。
 以上、孝子原文と『田辺孝子伝』の伝文比較では、孝子に対する藩の思惑の加筆が明らかとなった。『田辺孝子伝』が領民の道徳の教本であったとするならば、読者が理解しやすく魅力的に感じ、行動に移してもらう必要がある。すなわち『田辺孝子伝』の著者は、孝子エピソードに加えて、藩からの褒賞や名誉付与のあり方を上手に書き、藩の意図に沿った方向に導く内容にしたのではないだろうか。
 また「褒賞」の考察では、「碑の建立」と「年貢永免除」に注目した。江戸時代の巡礼寺社詣が流行していた時に、中山村が宿場であったことを背景に「碑」の役割として、巡礼者を介して孝子がいる田辺藩を他国に知らせる意味があるとした。そして「年貢永免除」の褒賞においては、上野家文書の記述より、最低でも一三〇年間もの継続がなされていたことが明らかとなった。つまり一三〇年前の孝子褒賞を藩は守り、大切に引き継ぎ実行している事実からも、田辺藩の孝子に対する手厚い扱いが証明できた。  
 他方、孝子者の西側への偏りでは、田辺領内を大庄屋組に分けることにより、孝子者が多い地域が明らかとなった。その地域は特に心学に熱心である共通の背景があることも解明できた。領民による共助公助についても、同じ村に住む孝子に対して、多数の村人の援助が行われたことを述べた。これは、村人同士の助け合いの暮らしが伺える例であり、複数の村人の共助も、藩の表彰の対象と認められたことを確認できた。
 このように『田辺孝子伝』は、村々へ配られ領内全域の人々が読み、教本として、身近な物語として親しまれたのに違いなく、江戸時代後期における「孝行」の社会的意義について、新たな知見を示すことができた。

中野 秀行

歴史遺産コース

趣味は山登りと古道街道ハイクです!

地元の里山に眠る古道や歴史街道を調べながら歩くのが大好きです。当時の人々の暮らしや旅人の思いを感じたく、旧東海道を三条大橋(京都)から日本橋(東京)までテクテク歩きました。
十分身に沁みました........。

長い時間、長い距離をかけてプロセスを楽しむのが好きなようで、大学卒業まで9年!しっかり楽しみました(^^)!

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