京都芸術大学での三年間の学びで実感したのは、「文章を書く」ということは思ったよりも肉体的疲労感を伴う作業なのだということでした。漠然といいと思っていること、表現したいことを文章にすることは、大きな石の塊から形を削り出していく作業に似ています。ぼんやりしたアイディアしかないと、何なのかよく分からない形になり、書きたいことが定まらないと、やたら情報の多い複雑なカタチになってしまうこともあります。形にするためには、規定文字数の何倍も他人の文章を読んだり、美術館に足を運んだり、散歩に出てみたり、思い切って旅に出てみたりすることが必要でした。自分には向いていない、書けないと思ったことも何度もありました。こんな文章しか書けない、それに比べて世の中の人はなんて素晴らしい文章を書いているんだろうと落ち込むことばかりでした。ただ、どんなにひどい形でも、終わらせる、完成させるということだけは続けました。卒業制作を書いている間、病気になりませんように、不測の事態が起きませんように、どうかこのまま仕上げさせて下さいと願いながら書いていました。私の削り出した形を見てくれる人がいるということを嬉しく思います。
※表紙画像:麻治から幸子に送られた葉書。宛名が「母上様」となっている。「讀書より自分を慰める物はありません」「特に夏目氏の著書」とあるので夏目漱石を読んでいたようだ。晩年にはプルーストを好んだ麻治の読書好きはこの葉書からも伝わってくる。
芸術学科 - アートライティングコース
久野久美子【学科賞】
東京都
息子の手紙
【本文】
「お母さん無事にお着きの事と思ひます 僕は毎日糧秣廠へ通って居ます。孤獨といふものは随分淋しいものですね お母さんを送った日はとめどもなく涙が出ました。家へ歸っても自分の家と云ふ感じが出ませんでした 人間の感情はかくも変るものかと疑問に思ひました」(1)
ノートを破って便箋がわりにしたのか、下辺がぎざぎざになっている。夫の父、久野麻治が戦時中に母親の、夫にとっては祖母の幸子に宛てて書いた手紙だ。日付は昭和二十年五月十六日。同年四月の東京西北部大空襲を奇跡的に生き延びた後、幸子は末の二人の子供を連れ、夫の親戚を頼って山口県仙崎の円究寺へ疎開した(2)。他の子供もすでに長野県へ学童疎開しており、東京には長男の麻治一人が残ることとなった。
当時、麻治は十七歳。いまの感覚で言うと思春期の複雑な年頃で、母親に対してわざとぶっきらぼうな態度を取ったりしても不思議ではない。ところが、麻治は幸子に「無事にお着きの事と思ひます」と敬語を使い、「とめどもなく涙が出ました」と素直に書く。昔は子供が親にあたりまえに敬意を払っていたのか、戦時中という過酷な状況が人を真面目に文章に向かわせていたのかはわからないが、いずれにせよ近頃では稀有な母への姿勢には違いない。この手紙に始まり、遠く離れて暮らす幸子に向けて、麻治は東京で起きた色々なことを書き送る。
麻治から幸子へ(五月十九日)
「お母さん、近頃又夜になるとお母さんや三世や悠子の顔を思ひ出して悲しい寂しい感じが自分の発将たる心を襲ひます 全くのホームシックです 自分が親からはなれるよりも親に離らせられる方がどんなに辛いかが感ぜられます」
三世と悠子は、幸子と一緒に疎開した麻治の弟妹。些細な漢字の書き間違いに、心の動揺が表れているようだ。その後、麻治の住む豊島区を再び空襲が襲う。
麻治から幸子へ(五月二十七日)
「俄然二十六日即ち二十五日午後十時半に丁度僕が電気を消して眠りに附かんと爲た時夜の静寂を破って鳴笛が鳴りひびきました。「敵数編体北上中」と云ふ情報に身を固めて外へ出て壕に色々のものを入れました。折よくも月夜でしたので庭は白晝の如き光景でした。(中略)攻撃の目標は此ちらに向けられたのでせう焼夷弾の落ちる音も次㐧に大きくなりました。所が快的にも焼夷弾を落した敵機は丁度知野君の家の付近上空で火を吹き速度が急に鈍り火の塊となって墜落して来ました」(3)
幸子の手紙に日付はないが、内容から手紙が出されたおおよその時期がわかる。幸子が麻治の妹の瑠璃子に宛てた以下の手紙でこの空襲のことが書かれている。瑠璃子は長野に学童疎開していた。
幸子から瑠璃子へ
「毎晩皆からの手紙をよむのが、お母さんのこの頃の何よりのよろこびです。一枚のはがきを二回も三回もよんでそして大事にお父さんの机(東京からもって来たのよ)の引き出しにしまってためてあるのです。兄さんのこの間の手紙にはB29が目白と池袋の間に火をふいて落ちて来たところのすごい絵がかいてありましたよ」(4)
幸子から麻治へ
「(夏たいくつな時、一葉全集よんでごらんなさい。夏にふさわしい文です。日記、たけくらべ、など)お待ちかねの入学式でうれしいでせう。しっかりやって下さい。かうして離れてゐると、やはり何より長男のあなたの立派になるのが待たれ、それをたのしみにくらしてゐるやうなものです。(中略)こちらは今、百合、あぢさい、花あをい、あやめ、あざみ、なんでも花ざかり。皆々お墓に美しくあげてあるのでお爺さんやお婆さんのお墓のことを思い出して花をあげたいと思ひますよ」(5)
麻治の進学した旧制東京高等学校は七月まで入学式が行われていなかった。麻治たち学生は、入学後、授業もそこそこに勤労奉仕に駆り出されたようだ。
麻治から幸子へ(八月九日)
「十三日より一週間は浅草の某国民学校の焼跡整理に行きました。(中略)講堂は今だに人の死んで焼けた骨が残って居ます。全くきれいに焼けたものです 残って居る骨は頭部の骨と「もゝ」とか「腕」とかの関節が残って居ました。(中略)骨と一諸に目鏡やバンドの金やがま口があったので人間と別りました。その外壁などに一家全滅「神よ平和を與へ給へ!!」などど云ふ全く悲惨なるが悲壮な字で書かれて居ました」(6)
この時期、麻治は何通か手紙を書いているが、いずれの手紙でも戦争の終結には触れられていない。
麻治から幸子へ(八月二十日)
「その後元気ですか。手紙下さい 東京で頑張って居ますからご安心ください 東京では色々な流言が飛んでゐます惑わされる様なことは有りません(中略)僕も山口へ行きたいのですが切符の入手困難と東京を出ると又再び東京へ歸れないとで自重して居ます」(7)
以下の手紙には灯火管制の解除を告げる東京新聞の切り抜きが同封されていて、日常生活を取り戻しつつあるのがわかる。
麻治から幸子へ(八月二十一日)
「東京もだんだん朗らかになって来ます。平和になるまで山口に居て下さい 元気で体を大切に」(8)
その後、十月二十日の日付を最後に麻治の手紙は残っていない。その辺りで幸子は東京に帰ってきたのだろう。
目まぐるしく状況が変わる麻治の手紙と対照的に、幸子の手紙からは戦時中とは思えないほど、穏やかな様子が伝わってくる。仙崎での暮らしはどのようなものだったのだろうか。地図をめくって、本州の端、山口県の日本海側に仙崎の地名を見つけた。東京生まれの幸子にとって初めての長旅だったに違いない。当時の時刻表を見ると、仙崎への行程は現在とあまり変わりがないが、戦時中は特急が廃止となっていたのでかなりの時間がかかったようだ。東京を東海道本線で朝8時30分に出発し翌朝9時に山陽本線の下関に到着、そこから一時間後に出る山陰本線、出雲今市行きで正明市(現在の長門市)に到着するのが13時43分。そこまで行けば正明市から仙崎まで歩いて行くことも可能だ。単純に計算して二十九時間越えの長旅になる。下関の手前の厚狭から、美祢線に乗り換えて正明市まで真っ直ぐ北上すると乗車時間は短くなるが、乗り継ぎのために夜明け前、駅で始発を三時間以上待たねばならない。小さな子供を二人連れて行ったかと思うと気が遠くなる距離だ(9)。
どれほど東京から離れているのか、実際に行ってみることにした。羽田から山口県宇部空港までは二時間弱で着く。宇部市内から厚狭に向かい、美祢線で行くルートを取ることにしたが、美祢線は単線を一両列車が走るローカル線で、長門市・仙崎方面は一日に九本しかない。明るいうちに仙崎に着くには宇部で一泊するのが無難に思えた。飛行場ができて便利になったとはいえ、思ったよりも時間がかかる。
ガタガタと揺れる美祢線に乗ってようやく辿り着いた仙崎は、日本海に浮かぶ青海島と本州とをつなぐ半島の突端にあった。両側を海で囲まれ、半島を横切るのには歩いて五分もかからない。十一月中旬だというのに暖かく、時折、頭上をウミネコがミャオミャオと鳴きながら飛んでいく。青海島の名のごとく、海の色は深くて青い。
仙崎は詩人、金子みすゞの生まれた町で、大抵の旅行客はみすゞの実家の本屋を改装した「金子みすゞ記念館」を訪れる。幸子が滞在していた円究寺は記念館のすぐ裏側にあった。記念館の受付で戦時中のことを尋ねると、仙崎が戦後すぐに大陸からの引揚者の受け入れ地となったことを教えてくれた。終戦の翌月には仙崎港に約七千人の引揚者が上陸し、町の人々は通りで炊き出しをしたという。記録によると円究寺も一ヶ月ほど引揚者の宿泊所となっている(10)。幸子も寺の手伝いに忙しい日々を送ったのかもしれない。子供たちから届く手紙を読むことが、慣れない土地での暮らしを癒したことだろう。初めは寂しさを訴えていた息子が、さまざまな体験を通して、「平和になるまで山口に居て下さい」と書いてくるまでになった。息子の成長を、手紙を通して知った幸子はやはり嬉しかっただろうか。それとも少しは寂しい気持ちもあったのだろうか。
記念館を出て、町をぐるりと一回りしてみた。戦後の賑わいが想像もできないほど町は静かで、すれ違う人もなかった。幸子が手紙に書いたように、通りのあちこちに花が咲いていた。
【要約】
内容:
筆者の夫の父、久野麻治は、戦争末期の昭和20年に17歳だった。空襲が激しくなって家族は長野と山口にばらばらに疎開することになり、麻治一人が東京に残った。麻治は、山口県の仙崎に疎開した母の幸子にあてて、孤独の辛さ、空襲で戦闘機の墜落を目撃したこと、勤労奉仕で遺体処理をしたことなどを、時には絵を添えながら手紙に書いて送る。それに対して、幸子は麻治に長男として立派になってほしいと書いてよこす。戦争が終わる頃には、麻治は成長し東京で一人で頑張るという手紙を書くようになった。
麻治に比べて、現存する幸子の手紙が少ないことから、筆者が実際に仙崎を訪れて幸子の暮らしを辿る。仙崎はどのくらい東京から離れているのか、当時の状況はどうだったのかを描写しながら、離れた場所で手紙を通じて息子の成長を知る母親の気持ちを想像し、喜びと一抹の寂しさがあったのではないかと結論する。
意図と目的:
最初に麻治の手紙を読んだ時、母親に対して率直に思慕の念を表現していることに胸を打たれた。現在の感覚では当時の麻治の17歳という年齢は、いわゆる思春期で親に反抗してもおかしくない。ところが麻治は手紙の中で、常に母親に敬語を用い、離れて暮らす寂しさを書き、東京で経験したことをありのままに伝えようと努力する。その内容も、空襲で落ちるB29を目撃したり、勤労奉仕と称して遺体の処理をさせられたりと、大人でもトラウマになりそうなことばかりである。自分が母親だったら心配でたまらなくなるところだが、幸子は手紙の中で鷹揚に構えている。実際に仙崎を訪れてみて、その穏やかな土地柄と東京からの遠さが、母親としての憂いを払ってくれたのではないかと考えた。この現在では稀有な親子のやりとりを筆者なりの視点で書いてみたいと思った。
構成:
3部構成。冒頭で、麻治の手紙の魅力を書き、続いて麻治と幸子の間に交わされた手紙の一部を紹介する。最後に、筆者が実際に仙崎を訪れた旅行記として、その遠さを実感し幸子の気持ちを想像して結ぶ。
【添付した参考資料】
1 登場人物関係図
2 久野麻治の絵(1)
3 筆者が撮影した南池袋公園にある「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」
4 久野麻治の絵(2)
5 空襲関連地図『豊島の集団学童疎開資料集(5)』より。麻治の住んでいた地区とB29墜落地を筆者加筆
6 昭和20年8月20日発行東京新聞の切り抜き
7 山口県で筆者が撮影した「海外引揚げ上陸跡地」の碑
【手紙の引用のルール】
-日付のあるものは明記した。
-手紙の本文中から一部を抜粋し、ひとつながりの文章の中で省略した場合には(中略)と入れた。
-手紙の本文では「。」が表記されていないが、文として切れているところはスペース「 」を入れた。
-旧漢字、旧仮名遣い、誤字、脱字は本文のまま。
【註】
(1)糧秣廠とは越中島(現在の東京都江東区)にあった「陸軍糧秣廠」のこと。「陸軍所要の糧秣の調達・製造・貯蔵等を行なっていた施設」で、麻治はそこで働いていた。「陸軍糧秣廠」https://www.jacar.go.jp/glossary/term4/0010-0020-0130.html 国立公文書館、アジア歴史資料センター、テーマ別歴史資料検索ナビ アジ歴グロッサリーより(2023年1月22日閲覧)。 この手紙に麻治は東京駅で母と弟妹を見送る絵を描き添えている。参考資料2として添付。
(2)当時、麻治一家が住んでいたのは東京都豊島区。豊島区南池袋公園にある「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」によると、4月13日深夜から14日未明にかけて東京西北部を襲った空襲は、死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼり、罹災者の数は161,661人でこれは当時の豊島区の人口の約7割に相当する。参考資料3として、筆者が撮影した南池袋公園にある「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」の写真を添付。幸子は、山口県仙崎の円究寺の住職であった親戚の上野法雄に、この空襲の前にすでに縁故疎開を頼んでいたらしく、4月11日付で法雄より疎開を受入れる旨の手紙が届いている。
(3)「壕」とは「防空壕」のことを指すと思われる。麻治はこの手紙に、火を吹いて落下する飛行機を描いた絵を添えている。参考資料4として添付。 『豊島の集団学童疎開資料集(5)』によると、5月25日に豊島区を空襲が襲った。参考資料5として「空襲関連地図」(筆者による加筆あり)を添付。POW研究会のホームページに記載の「本土空襲の墜落米軍機と捕虜飛行士」によると5月25日〜26日「東京都豊島区高田南町2丁目(現・高田3丁目)の中外製薬の工場付近」に「B29(機体番号42-63558、第313航空団6爆撃群所属)が墜落」したことがわかる。http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html#194505(2023年1月22日閲覧)「知野君の家」は池袋から見て目白方向にあったのであろう。
(4)「お父さん」とは幸子の夫、上野隆誠のこと。昭和18年に肺炎で亡くなっている。本文では「B」の横に「ビー」とルビがふってある。「すごい絵」とは参考資料4として添付した絵。
(5)本文では「日記」、「たけくらべ」の横に傍点あり。「入学式」とは旧制東京高等学校(現在は東京大学教育学部附属中等教育学校)の入学式のこと。
(6)当時の「浅草区」は同年3月の東京大空襲で甚大な被害を被っている。総務省ホームページの「台東区における戦災の状況(東京都)」によると、「死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害」であった。https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.html(2023年1月22日閲覧) 「今だに」と書いてあるのはつまり、3月の空襲からずっと焼跡が放置されていたということのなのかもしれない。
(7)実際の幸子の手紙は残っていないが、この文面によると、幸子は麻治を山口へ呼び寄せようとしていたことが想像される。
(8)本文では、「だんだん」の2個目の「だん」は「くの字点」。この手紙には8月20日付の東京新聞の記事が同封されており、「今夜から燈管を解除」という記事に丸印がつけてある。参考資料6として添付。
(9)資料を閲覧した鉄道博物館所蔵で最も日付の近い『昭和二十年七月一日時刻表』(1999年11月復刻版)による。乗車時間の長さも相当なものだが、それ以上に切符の入手が困難だったようだ。『国鉄乗車券類大事典』によると、昭和18年5月29日に旅規が改正、特急が廃止、途中下車が禁止され、乗車には「列車指定制」といって東亜旅行社の神田案内所のみで乗車券と一緒に交付していた「列車指定証」が必要だった。途中下車が禁止されていたことを考えると、下関ルートを取った可能性が高い。正明市(現・長門市)から仙崎までは、一駅だけの仙崎線というものがあるが本数が少なく、現在でも地元の人によると仙崎まで乗る人は少ない。(2)で触れた円究寺の法雄の手紙には、「必ず正明市まで迎えに参る」と書いてある。
(10)参考資料7として、筆者が仙崎で撮影した「海外引揚げ上陸跡地」の碑の写真を添付。この碑によると、7千人を皮切りに、昭和21年末仙崎が引揚げ港の役目を終えるまでに、仙崎港に上陸した人数はおよそ41万4千人であった。円究寺が宿泊所になっていたことは、『長門市史 歴史編』、『さらば仙崎引揚港 敗戦・激動の狭間から』に記載されている。
【参考文献】
東京都豊島区立郷土資料館編『豊島区立郷土資料館調査報告書 第10集 豊島の集団学童疎開資料集-日記・書簡編5 高田第五国民学校(続)-5』東京 豊島区教育委員会、1993年、48ページ
東京都豊島区『豊島区史』 東京 東京都豊島区役所、1951年
『旅に出たくなる地図 日本』帝国書院、令和4(2022)年
『時刻表』第20巻第11号、財団法人東亜交通公社、昭和19(1944)年11月28日
『時刻表』昭和二十年七月一日、東亜交通公社発行、JTB復刻、1999年11月
近藤喜代太郎、池田和政著『国鉄乗車券類大辞典』、JTB、2004年、288〜292ページ
長門市史編集委員会編『長門市史 歴史編』長門市、1981年、592ページ、976ページ
萩原晋太郎『さらば仙崎引揚港 敗戦・激動の狭間から』マルジュ社、1985年、79ページ
【参考URL】
金子みすゞ記念館ホームページ https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/misuzu/ (2023年1月23日閲覧)
美祢線 長門市方面への時刻表
https://mydia.jr-odekake.net/cgi-bin/mydia.cgi?MODE=11&FUNC=0&EKI=厚狭&SENK=美祢線&DIR=美祢・長門市方面&DDIV=&CDAY=&DITD=%33%39%30%31%30%35%34%30%30%31%31%30%30%2c%33%39%30%31%30%35%34%30%30%31%34%30%30&COMPANY_CODE=4&DATE=20230124(2023年1月24日閲覧)