「不便」の効用

8月 01日, 2011年
カテゴリー : プロデューサー目線 

福島原発の事故以来、「脱原発か原発依存か」の議論が活発に行われています。議論することはいいことですが、安全か否かといった話の中で放射線を含んだ廃棄物処理の問題に触れる人が意外に少ないのが気になります。半永久的に無くなることのない物質をどう処理していくかが解決されていない状態では、地球が汚染されていく一方です。今便利だからといって将来に不安を抱えたまま突っ走るのは、良く効くけれど副作用の強い薬を服用しているのと同じです。人類はいつか安全な処理方法を実現できるかもしれません。しかし、今の状態のまま世界中が有害物質を増やしていく危険は、すぐ回避しないと手遅れになります。原発関係の仕事をされていた方たちが困らないように、今度は自然再生エネルギー開発の国営公社を立ち上げるなど、方針さえはっきり決まれば、救済方法はいくらでもあります。原子爆弾の洗礼を受けた日本だからこそ、思い切って脱原発を実現していくべきではないでしょうか。以前、「不便な生活に戻る勇気」という拙文を書きましたが、その後、日本人はみんなで節電に協力しています。「結構無駄に電気を使っていたんだな」という反省をしながら、悲壮感を持たず節電を意識している自分に気がつきます。扇風機が売り切れになったのも微笑ましい庶民の知恵でしょう。

さて、9月3日(土)・4日(日)と春秋座で上演される、オペラ「ラ・ボエーム」の主人公ミミとロドルフォとの出会いは、何がきっかけかご存知ですか。そう、ロウソクです。
~ミミが消えたロウソクの火をもらおうとロドルフォの部屋を訪ねた際、戸口で部屋の鍵を落としてしまう。鍵を探していると今度はロドルフォのロウソクの火が消える。暗闇で手探りをしているうちに二人の手が触れ合う。ロドルフォはすかさずミミの手をとり「何と冷たい手」と歌いだす~
ロドルフォがわざとロウソクの火を消したのかどうかは別として、なんとロマンチックな場面でしょう。これは明らかにロウソクがもたらしたロマンス。電気が普及した時代では起こり得なかった出来事です。霞むガス灯の下で別れを惜しむように抱きあう二人。
これが蛍光灯では雰囲気が出ません。江戸時代の行燈にしても同じです。蒸し暑い夏、蚊帳の中で雑魚寝した家族、不便は不便なりに人間を人間らしく感じていたように思います。
「ラ・ボエーム」には、悪役は一人も登場しません。ドラマを創る上で悪役が存在しないというのは不便ではありますが、ここでも不便さが感動をもたらしてくれています。
私はこれを機会に「不便」の効用をあらためて考えてみたいと思っています。

橘市郎
(舞台芸術研究センター プロデューサー)

「マラルメ・プロジェクト2――『イジチュール』の夜」のこと

7月 01日, 2011年
カテゴリー : プロデューサー目線 

昨年5月に、筑摩書房から『マラルメ全集1』が刊行されて、約四半世紀かかった5巻本の全集が完結した。『全集1』には、「全詩集」と哲学的未完の小話『イジチュール』、ならびに詩人最晩年の「植字法的詩篇」の冒険『賽の一投げ』が収められているが、編集委員の一人であった私は、『全詩集』中の白眉ともいうべき『半獣神の午後』および『イジチュール』の翻訳・注解を担当した。
 昨年は、この全集の完結を祝うという意味で、私が『エロディアード――舞台』と『半獣神の午後』をフランス語原文で読み、それを坂本龍一氏の音楽と、高谷史郎氏の映像が
マラルメの詩の宇宙的広がりを見事に暗示した。コーディネーターというかモデレーターとして、浅田彰氏が極めて積極的に動いてくださったことも成功の重要な要素であった。
 そもそもフランス語の詩を、日本人がフランス語で読む、などというのは、多くのフランス人にとっては「悪い冗談」程度にしか受け入れられないだろうというのは無理もない考えだろう。しかし、フランス古典主義悲劇の頂点に位置するラシーヌ悲劇を日本語にし、かつそれを演出してきた者としては、フランス語の「詩句の声」は、常に自分の体で聞いてきた。それは翻訳者の実践としては、ラシーヌの天才に及ぶべきもないが、日本語で「ラシーヌ悲劇の詩句」の等価物が、舞台に立ち上がることを目指している。
 その意味では、フランス語原典で読むほうが、逆説的に聞こえるかもしれないが、よほどリスクが少ない。もちろん、「朗誦法」というものが、日本の伝統演劇のようには、パフォーマンス・レベルで伝承されてはいないのだから、こちらの解釈に従って、選択肢は広い。
 ともあれ、そういう訳で、昨年は『半獣神の午後』と「エロディアード――舞台」の二編を読んだのだが、今年はその延長線上で、「未完の哲学的小話」であり、難解をもってなる『イジチュール』に挑むことにした。
 この哲学的小話は、1860年代後半に、当時、南仏の中学校の英語教師であったマラルメが、「半獣神」と「エロディアード」をコメディ=フランセーズで上演してもらおうという計画の挫折後、すでに悪化しつつあった神経症が狂気の境へ隣接し、「詩が書けない」状態が極限的様相を呈し始める。それを脱却するために、デカルトに倣って「虚構」によって思考する実験として――マラルメ自身の言葉によれば、「類似療法(オメオパティー)」の「毒ヲモッテ毒ヲ制ス」という手法にならって――書いたのが、この『イジチュール』である。
 ブランショからデリダに至る20世紀後半の「文学についての根源的問い」が、常に参照してきたテクストであるが、それは1925年に、マラルメの娘婿ボニオ博士が、遺稿から読み起こした版(1925年)が定本となっていたが、その読みに無理があることは人々が気づいていた。マラルメ没後100年を記念して新しくなった『プレイヤード叢書』の校訂者ベルトラン・マルシャルによる新しい「読み」によって、今回の『全集』版は訳されている。  
従来の理解とは大きく変わるところもあり、また言説の不確定性も、このような舞台パフォーマンスを可能にするように思えている。

渡邊守章
(舞台芸術研究センター プロデューサー・演出家)

「春秋座はアクセスが悪い」?

6月 01日, 2011年
カテゴリー : プロデューサー目線 

「春秋座はアクセスが悪い」とよく言われます。確かにJR京都駅からは⑤番の市バスで50分もかかってしまいます。地下鉄で烏丸丸太町まで来て、204の市バスに乗り換えても35分はかかるでしょう。しかし、大阪からの場合は京阪電車の特急に乗り、終点出町柳まで来ると③番の市バスで15分です。
私は昨年の9月から敬老乗車証なるものを購入し、有効に使わせていただいていますが、そこで気がついたのは「上終町京都造形芸大前には実に多くのバス通っている」ということでした。市バスの③番、⑤番、204番、京都バスの55番。上終町(かみはてちょう)と言うといかにも辺鄙なところを連想させますが、実はとても便利なところです。
時間は多少かかるけれど、ゆとりを持ってお出かけいただければそう疲れずにたどり着けます。10月中には、あの大階段を上らずに済む新しいエレベーターも完成いたします。
大阪に出かけることを考えたら、京都市内にお住まいの方はどれだけ楽か分かりません。
また繁華街で食事をするとなると、結構高くつくものですが、春秋座の近くにはリーゾナブルで静かで、おいしい、雰囲気のいい店がいくつかあります。
今回は私が責任を持ってお勧めする3店をご紹介しましょう。まず日本そばのお好きな方には「皆川」をお勧めします。いかにも京都らしい店構えで、打ち水した石畳、和紙に毛筆で書かれたメニューが目を引きます。私のお気に入りは「揚げ玉入りおろしそば」。甘めのたれに具がいっぱい入っていておそばの味を引きたたせています。ちなみにお昼をここで取る時はこのメニュー一点張りで、私が注文する前に「揚げ玉入りおろしそばですね」と言われます。何とかの一つ覚えみたいで恥ずかしいのですが、ぜひ、一度お確かめください。
洋食党の方には「猫町」があります。大正ロマンを感じさせる、重厚なテーブルや柱時計が心を和ませてくれます。土、日以外はご夫婦お二人で切り盛りしていて、ボリュームのある本格的な洋食を出してくれます。奥には7~8人で会食を楽しめる個室があるのでお友達と観劇の後など寄るには最適です。
京風中華なら、徒歩1分で行ける「叡」が一押しです。こちらも、ご夫婦だけでやっている12名くらいしか入れない可愛い空間ですが、味良し、雰囲気良し、その上リーゾナブルな料金で感動してしまいます。京都にはこじんまりとした構えで本物を提供するお店が時々ありますが、まさに「叡」はそのお手本のような店です。ご主人の陳武さんと奥さんの直子さんは高校時代の同級生同士だそうで、抜群のコンビネーションがリピーターを増やしているのかもしれません。ことに「叡」のチャーハンは芸術的です。また、ランチについている前菜は大原の野菜で季節感たっぷり、直子さんの説明でおいしさ倍増です。
今回ご紹介した3つの店の詳しい情報はネットで調べられます。ここではお勧めだけになりますがお許しください。
とにかく「春秋座はアクセスが悪い」と言う風評に惑わされることなく、お出かけいただきますようお待ちしています。

橘市郎
(舞台芸術研究センター プロデューサー)

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