世阿弥に学ぶ -連続レクチャ-「世阿弥の芸論にみる舞台芸術論」に寄せて-

8月 01日, 2014年
カテゴリー : プロデューサー目線 

世阿弥が遺した芸論とも能楽論とも呼ばれる演劇論は、この21世紀初頭の現代にあっては、その存在はともかく、その内容については、ほとんど知られていないと言っても過言ではないと思います。私は昨年の10月から今年の3月まで、『京都新聞』朝刊の「古典に親しむ」欄に、「世阿弥に学ぶ」と題して、つごう26回にわたって、世阿弥が遺した21の芸論から選んだ一節を紹介していますが、予想外に多くあった反応のうち、もっとも印象的だったのは、世阿弥という名前は知られてはいるが、彼が執筆した芸論の内容はほとんど知られていない、ということでした。そのときにとりあげたのは、『風姿花伝』『花鏡』『至花道』『三道』『九位』『遊楽習道風見』『夢跡一紙』、それに配流先の佐渡から女婿の金春大夫氏信(禅竹)に宛てた書状の8点でしたが、世阿弥が『風姿花伝』以外にこれだけ多くの、しかも高度な芸論を書いていたことが、読者には驚きだったようです。世阿弥といえば『風姿花伝』という固定観念が圧倒的に強いのです。『花鏡』の「初心忘るべからず」を紹介したときは、この言葉は『風姿花伝』にあるものと思っていた、という反応もありました。世阿弥がいう「初心」には、「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」の3種があって、その「初心」も一般に理解されているような「初々しさ」という意味ではないと書いたのも、読者には衝撃だったようです。そもそも、上にあげた『花鏡』以下の芸論は、その書名にはじめて接したという読者も多かったのではないでしょうか。著名な『風姿花伝』にしても、実際に読んだことのある人は僅少といってよいでしょう。
以上は、あくまでも一般読書人あるいは能楽愛好者の状況ですが、ことは能もふくめた舞台芸術関係者においても同様のようです。しかし、舞台芸術関係者として、この膨大にして高度な舞台芸術論をほおっておく手はないと思います。そこに展開されているのは、能芸美論、習道(稽古)論、観客論、能作論、芸位論、音曲論と多岐にわたっており、現代の舞台芸術にとっても参考になることが少なくないからです。たとえば、私はこの連続レクチャ-「世阿弥の芸論にみる舞台芸術論」の第1回では、「観客論」を中心にお話しする予定ですが、劇作家の山崎正和氏は、昭和44年の「変身の美学-世阿弥の芸術論-」の冒頭において、まず、観客を「こちらから問い返すことのできない絶対の審判者の群」だとして、演劇という世界にのしかかっている巨大な影だとしています。もちろん、それは世阿弥がいかに観客というものを意識していたかということなのですが、世阿弥の強烈な観客意識は、当然、現代の俳優と観客とのかかわりを、さらには現代の舞台芸術と観客の関係についても考えをおよぼすことになるはずです。
話を『京都新聞』にもどすと、連載が『風姿花伝』から『花鏡』に移ったとき、『花鏡』は何を見れば読めるのかという問い合わせが新聞社にあったそうです。世阿弥の芸論は知られてはいませんが、その内容に強い関心を持っている人は少なくないようです。そういう方々にも、ぜひ、8月21日から始まる『世阿弥の芸論にみる舞台芸術論』(計3回)に参加していただきたいと思っています。

天野文雄
(舞台芸術研究センタ-所長)