アートプロデュースコース

お寺とコミュニティ~現代における寺院の可能性の一例~ 梶田真章さん特別講義

kajita

 

今回は京都造形大からも近い法然院の住職である梶田真章さんにお越しいただき、

「お寺とコミュニティ~現代における寺院の可能性の一例~」というテーマでご講義いただきました。

はじめに日本における佛教の歴史やその教えをお話いただき、梶田さんや先代が法然院で行っておられる、さまざまな取り組みについてご紹介いただきました。

 

時代の移り変わりによって、お寺の果たす役割も変わってきていると梶田さんはおっしゃっていました。

明日への不安が絶えなかった時代には、仏や神を頼りにし、それを生きる糧としていたけれども、

ものが豊かになった現代では、特別何かに頼らなくても生きていくことがでるようになりました。

しかしそれは、他者を受け入れず自分の世界に閉じこもって「自己中」な自分を生みやすくしている面もあるかもしれません。

佛教的に言えば“愛は地球を救わない”のだそう。なぜなら愛は憎しみや恨みを生むからで、

佛教では「愛」に代わるものとして、「慈悲」という言葉が使われるということでした。

自分に執着(自愛)するばかりではなく、他者を慈しむ心をもって、また他者と平等な立場に立って物事を見ることで、自己は絶えず更新され、それが生きる力、サバイバル力として積み上げられていくのではないでしょうか。

 

 

 

 

■以下、学生レポートより抜粋■

 

自分の目標への向かい方として考える機会になりました。「宗教」を遠い言葉としてではなく「自分の信じるものに対しての姿勢」としてみるとまた面白いなと思いました。目標を決め、行動をするときに、どうしても人の目や、自分の目標が本当に正しいのかと不安になることがあります。ですが、そんな時こそ自分を見つめなおし、相手の信じているものと比べてみる、そして自分を知る。そのようなことを繰り返していく時に目覚めるのだなと感じた。そのためにはやはり、他者の存在に疑問、関心を持って関わり、相手の世界を「見て聴く」、このことこそがコミュニケーション、もっと大きく言えば「成長」といったものなのかなと思いました。

 

 

佛教を通して人間の考えの愚かな部分や、人としての生き方の勧めを学びました。仏教の中でもコミュニケーションが重要視されているとは今日の講義を聞くまで気が付きませんでした。確かに日々の仏壇へのお参りや墓参りなどは死者との交流であるし、お盆や法事などで親戚などが一堂に集まれば、親族同士の交流であるなと思いました。

 

 

「愛」はすばらしいとみんな思っている気がするけれど、日本でメジャーな思想だった仏教では「愛」は執着に繋がってよくないことも引き起こすと釈迦に言われているのを初めて知った。たしかに「愛」のようなものは偏っているだろうし、怖いものにも思えてきた。「愛」という言葉や概念に浮かれないで、この「愛」はほかの人たちにはどのように映っているのかと考えてみたり、思い切って自我を疑ってみる勇気をもっていきたいと思う。展覧会で色々なアーティストの作品をみて考えるのは自分を改めることの連続ではないか。

 

 

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