アートライティングコース 飯塚 千紗 【同窓会賞】
「美しさ」で傷つく人も、傷つける人も、一歩立ち止まることができるよう願いを込めました。
兵庫県
「美しさ」に呪われた私たちへ
【本文】
1章:規定された「美しさ」とルッキズム
写真が苦手だ。撮るのはまだいいとして、撮られるのはかなり苦手だ。しかもそれが他人の目に触れるとなると、もっと苦手だ。何とか言い訳をしてその場から逃げ出したくなる。
1998年生まれの私が初めてスマートフォンを手にしたのは、高校生の頃だった。SNSの大流行によって、「盛れる」「映える」写真撮影に余念がないティーンエイジャーで溢れていた当時、「撮ろ~」という声が聞こえたらカメラ目線。そうして撮られた写真は、100%の善意で私にも共有される。そこに写る自分の顔を見るのが苦手だった。別に、自分の容姿へ取り立てて強い不満があるわけではなかった。苦手だと感じたのは、それが恰好の比較材料になることを知っていたからだ。
「この中なら誰が一番かわいい?」 特定の個人名を挙げた後の「分かる〜」も「ないわ〜」も全て、ありふれた休み時間や放課後のワンシーンとして記憶している。そこで話題に上がるのは、目が大きく・顔が小さく・華奢な身体つきで、誰が見ても「整った容姿」をもつ「美人」たちだった。これは単なる思い出の写真ではない。誰かに見られることを前提とした写真。誰かに「ジャッジされる」ためだけの写真。
写りたい人だけ写れば良いのに。「美人」な彼女から共有された写真で、真っ先に自分の写り具合を確認しながら私はそう思った。
あの頃の教室には「美人」が「美人」たり得る暗黙の了解が存在していた。
私がその歪さを明確に自覚したのは、美術館に通い始めた20代前半のことだった。絵画を観賞しはじめて間もない頃、目に留まるのは「整った」絵画ばかりだった。例えば、《モナ・リザ》のように写実性が高い作品や、《睡蓮》のように柔らかな色合いで溢れた印象派の作品など。そのような絵画の前では、うっとりとした気分で長々と居座ってしまう。が、訳の分からない作品―ぐちゃぐちゃとした線や、濁った色調、癇癪をおこした子供が描いたような混沌―と直面すると、私の足は気まずくそそくさと離れてしまう。「私には理解できない」「ああいうものを好む人もいるのだろう」、なぜそんなものが―「美しくないのに?」
そこまで考え、はたと立ち止まった。整っていなければ、美しくないのだろうか。「美しさ」とは、そんな画一的な意味だっただろうか。なぜ「整っている」=「美しい」と感じてしまっていたのだろうか。それは本当に、私の内側からあふれ出た気持ちなのだろうか。
どのような特徴が「美しい」のか。その感覚は、SNSがインフラと化した今日、教室を飛び出して社会全体のものになっている。その証拠に、「ルッキズム」という言葉をよく耳にするようになった。本来の学術的な定義としては、外見に基づく差別・偏見を示すものであるが、その意味はアカデミアを離れるにつれて拡大し、一般的には「外見至上主義」という意味で使用されていることが多いようだ(註1)。明確な差別や不平等の内容そのものというより、それらが「ルックス」によって規定される現状に、多くの人々が違和感を覚えていることは明らかだ。
この容姿でなければ、この体型でなければ「美しくない」という基準は、自らの内側から自然と湧き出たものではなく、常に外側から影響を受けたものではないだろうか。地球上にアダムとイブしか存在しなかったころ、彼らは己の容姿がどうであったかなど考えたことはなかっただろう。「ルッキズム」という用語が広く使われていることは、皆が「これはおかしい」と気が付いていることの表れだ。
しかし、どれだけ外見至上主義に反旗を翻そうが、「どんな人間も生まれながらに美しい」と正論で立ち向かおうが、一度外側で形成された「美しさ」から簡単に抜け出すことはできない。目を大きくみせるには、顔を小さくみせるには、痩せているようにみせるには……。インターネットに溢れる多種多様なハウツーは全て同じ「美しさ」を指し、心の中に住み着き、私たちを締め付ける―まるで呪いのように。
これを限りなくゼロに取り除くことはできないだろうか。外側から規定された「美しさ」の呪いを解き、自分の内側に確固たる自分自身の価値観をもつことはできないだろうか。
2章:"Girls of Isolation"から感じた、新たな「美しさ」
この疑問に関するヒントを与えてくれたのが、2020年から2021年にかけて、詩人・作家のオリヴィア・ガトウッド(1992 ~)が開始した、"Girls of Isolation"ムーヴメントである。
コロナ禍が始まったばかりの2020年、ガトウッドは自主隔離中の姿をセルフポートレートとして自身のインスタグラムに投稿した。この投稿の反響を受け、ガトウッドは"Girls of Isolation"と名付けた別のアカウントを作成し、ユーザーから自主隔離中の写真を募集した(註2)。条件は3つある。①セルフポートレートであること②隔離中の自宅であること③モノクロであること。ガトウッドは、翌日から集まった様々な作品をコラージュし、約150もの作品を投稿した(註3)。
"Girls of Isolation"に参加する彼女たちは、人種・年齢・体型など様々だ。しかし私は、そこから明確な「美しさ」を感じた。それはもちろん、容姿が整っているかどうか、などという話ではない。どこか身近に感じることができ、なぜか惹かれる魅力がある。まっすぐに「良いな」と感じるのだ。
例えば、"Girls of Isolation"に投稿されたコラージュの左下の作品に注目したい(註4)。日が差し込む窓際のベッドには、ノートパソコンと本が広げられている。ノートパソコンに貼られた”MIXED KIDS ARE DOPE(混血のヤツらはイケてる)”のステッカーが目を引く。そして、こちらに少し身を乗り出した彼女のまっすぐな瞳と目が合う。彼女のルーツやパーソナリティについて本当のところは一切わからない。しかし、私はこの作品から彼女の静かな矜持のようなものを感じ、それがとてつもなく「美しい」と感じた。
ガトウッド自身はこう述べる。「良いセルフポートレートとは、作り込まれた美しさを盛り込もうとしたものより、日常のリアルをとらえたものである」(註5)。つまり、規定された「美しさ」を取り入れることは、その人を魅力的に見せることとイコールではないということだ。
確かに”MIXED KIDS ARE DOPE”の彼女には、自然体の魅力があるように感じる。ラフなTシャツにダウンヘア。ポーズらしいポーズはとっておらず、誰かに呼ばれて顔を上げた瞬間を撮影したかのようにも見える。この「美しさ」は、彼女の存在そのものから感じ取れる「美しさ」は、何なのだろうか。
3章:セルフポートレート撮影 私の「美しさ」とは
その理由を探るため、私自身もセルフポートレートを撮影した。撮影場所に選んだのは自室のデスク前だ。三脚などは持っていないので、ストレッチポールと食器で何とかiPhoneを固定した。モノクロフィルターと10秒のセルフタイマーをかけて撮影開始ボタンを押す。椅子に座ってシャッターが切れるのを待つ。体が緊張で少しこわばる。どこを見ればいいのかわからない。そうこうしているうちにタイムアップ。ガシャガシャガシャガシャ……と、けたたましい音を立てて連続でシャッターが切れた。
撮影された画像を確認すると、こわばった表情で、こちらを鋭く睨みつける私が写っていた。10枚連続撮影の写真すべてが1ミリも違わず同じ姿であった。モノクロフィルターは日常の光景から情報量を減らし、画面に写る私は別人のように固まっていた。これはいけない、写真を撮るときは笑顔が鉄則だった。もう一度撮影開始ボタンを押す。撮る。確認する。こわばった顔のまま、口角だけがぐにゃりと曲がった私。やっぱりもうちょっと目を見開かないとダメだ、顔が間延びするから眼鏡をかけた方が良いし、あとは頬を意識して笑顔を……。
違う、と我に返った。私は「盛れる」写真を撮ろうとしているのではない。目の大きさも、綺麗な笑顔も関係ない。解こうとした呪いに、またかけられている。私は誰かの考えた「美しさ」から解放されたいのに。
呪いの深さを目の当たりにし、作戦を変更した。とにかく撮ること、カメラに慣れることを目標とした。リラックスするために音楽を流し、シャッターボタンを押し、椅子に座り、またボタンを押し、座り……。メロディーを口ずさみ、ビートにのり、時には立ち上がって思うままにポーズをとる。撮った写真をいちいち確認することは止めた。無意識に呪われる可能性があるからだ。そうして、約500枚を休憩なしで撮影した。
心地よい疲労感を覚えながら、写真を1枚1枚確認する。そこに写る私は、最初に撮影した2回とは全く違う表情をしていた。顔から余計な力が消え、リラックスした表情。薄目だったり、目をつぶっていたり、口が半開きになっていたり……。到底「盛れる」とは言えない写真ばかりだ。だが、同時にこう思った。「他のだれでもない、『私』が写っている」、と。一生懸命に目を大きく開き、口角を上げた私ではない。普段の私が、日常生活の延長線上にいる私が写っていた。そしてそれは、「私」であるからこそ、とても心地よく、何度も見返すことができた。この感覚は、”MIXED KIDS ARE DOPE”の彼女に感じたものと近い。だがもう少し、何かが足りない気がする。
適当に来ていたTシャツから、一番気に入っているシャツに着替え、リップスティックを塗った。背景となる机の上には、仕掛り中の編み物や刺繍、それから香水瓶をいくつか並べた。かなり雑多な背景になったが、これで問題ない。今の私のリアル―好きな服やメイク、愛用しているモノ―を配置することで、より「私」を表現できるのではないかと考えたからだ。再度カメラをセット。音楽を流し、撮影開始ボタンを押す。今度はもう少しきちんとカメラを見つめてみる。私だけの「美しさ」を収めるために。Take501から、もう一度カメラと向き合った。
そうして完成したセルフポートレートの中の私は、真っ直ぐにこちらを見つめている。写りを良くするための過度な表情作りは止め、いっそ無表情と言っても良いような表情で見つめている。左右で大きさの違う瞳が、普段は少しコンプレックスに感じているそれがはっきりと写っていても、嫌だとは思わなかった。画面に写るあらゆるモノを、私を象徴する全てのモノを背負い、ただ静かに「これで良い」と、「これが今の『私』である」という満たされた瞳が、色のない写真から伝わってくるからだ。取り繕った笑顔よりも、この顔の方がはるかに人間らしくて「美しい」。約1000枚にも及ぶセルフポートレート撮影の果てに、私は「私らしい美しさ」をカメラに収めることができたのだ。
セルフポートレートは、他の芸術作品と同じく「選択」の連続である。どこで撮るか、どの角度で撮るか、何を写すか、何を写さないか、服は、ポーズは、表情は……。写真に写す全ての要素を自ら選択し、コントロールし、決定する。その全てのプロセスを、撮影者であり被写体である自分1人で行う。ガトウッドはセルフポートレートのこのような側面について、自分がどのように見られたいかをコントロールできることは、制御不能な社会の状況からの解放に繋がるかもしれない、と述べている(註6)。彼女の述べた「制御不能な社会の状況」とは、当時のコロナ禍における自主隔離期間のことを指しているが、現在も存在する「美しさ」をめぐる様々な呪いもまた、制御不能な状況と言えるだろう。
セルフポートレートの撮影を通して、"Girls of Isolation"の作品を初めて見たときに感じた「美しさ」の理由がはっきりと分かった。一人ひとりが被写体としての自分自身を尊重し、自らの内面と素直に向き合った結果、「その人自身の美しさ」が解き放たれたからだ。それは決して「作り込まれた美しさ」ではあり得ず、様々な感情を抱え、あらゆる選択を積み重ねた果てに今を生きる「日常のリアル」が表現されるのだ。この世に2人といない「私」という人間が深まった結果であるのだから、当然この「美しさ」に画一化された基準はない。いや、強いて言うのであれば、どれだけ自らと向き合ったか、ということが基準になり得るのかもしれない。つまり、表面的な造形のみで判断する「美しさ」には何の意味もない、ということだ。
4章:私は、あなたは、彼は、彼女は「美しい」
撮影中、繰り返し流していた曲がある。Alessia Cara の ”Scars to Your Beautiful”だ。「美しさ」を考えるにあたって、この曲の存在がずっと頭から離れなかった。その理由は、歌詞にある。
There's a hope that's waiting for you in the dark
You should know you're beautiful just the way you are
And you don't have to change a thing, the world could change its heart
No scars to your beautiful, we're stars and we're beautiful (註6)
暗闇の中であなたを待っている希望がある
あなたはあなたのままで美しいということを知らなくちゃ
何も変える必要なんてない、世界はきっと変わる
あなたの美しさに傷なんてない、私たちは星であり、美しいのだから
この曲がリリースされた当時、高校生だった私はこう思った。とても良い歌詞だけど、現実はそうも言ってられない、と。「あなたはそのままで美しい」なんて綺麗事だ、と。
しかし、今の私は違う。"Girls of Isolation"の彼女たちと、約1000枚の「私」と向き合った私は、この歌詞が真実を歌っていると確信している。それは、どんな「外見」でも美しい、ということではない。「私そのもの」が美しい、ということなのだ。
そして、その「美しさ」を理解するためには、どこまでも深く、深く自分自身と対峙する必要がある。身支度をするときに鏡を見る程度では、自分の造形を表面的に判断するだけでは足りない。自分のものではない別の瞳を―つまりレンズを―通して、目線をとことん内側に向ける。自分の像に他者をオーバーレイせず、ひたすらに自分自身を見つめる必要があるのだ。
ガトウッドは、セルフポートレートでは私だけが私を見ており、「見られる」ということによって愛が生まれる(註7)と述べている。つまり、自分が自分を「美しい」と、自身を愛で包み込めるようになるには、自分しかいない空間で、自らを見ること・見られることが大切なのだ。能動的に、積極的に、自身を受け入れようとする行為。つまり、誰のためでもない、私による、私のためのセルフポートレートだ。そうしたときに初めて、「私は私のままで美しい」と思えるようになるだろう。
もしも今、外側から締め付けられる「美しさ」に苦しんでいるのなら、鏡の前ではなくカメラの前に立ってみてほしい。あなたを構成するもの、外的な造形ではなく、あなた自身からあふれ出る「美しさ」とはどういうものなのか。証明写真のように硬くなる必要はない。正面を向くのか、横を向くのか。何かしらのモノを持つのか、飾るのか、それとも何もいらないのか。決まりごとは存在しない。あなたを象徴する要素を選び、その全てをコントロールする。そうして初めて、表層としての「顔」ではなく「あなた自身の美しさ」が写るのだ。
現代社会では、男女関係なく「美しさ」を追求することが義務のように謳われている。一定の「整った」造形は努力で成し遂げられるものであり、それを行わないのは怠慢である、というように。SNSを開けば攻撃的な言葉で強要される「美しさ」や、どこかで聞こえた心ない言葉に気持ちが揺らぐことがあるだろう。「美しさ」に優劣をつけてしまうことも、あるかもしれない。しかし、私はすでに、私自身の「美しさ」を見つけ、「美しい」自分のことを知っている。知っているという事実そのものが、傘となり盾となり、私を守るだろう。
このルッキズム(外見至上主義)という呪いで溢れた世界で、あなたも私も、「美人な」あの人もきっと同じ気持ちを経験している。
私たちにかけられた呪いは重く、深く、複雑である。しかし、一つひとつ、自分自身との対話を通して解くことができる。それはひどく面倒で、時に自己否定に陥り、時に空虚な気持ちになるだろう。だが、私は確信している。私には私の、あなたにはあなたの、彼には彼の、彼女には彼女の「美しさ」が存在する、ということを。そしてそれは、オリジナルであるが故に比較などしようがないのだ。
ふと思い立って、スマートフォンに残る古い写真を探した。高校の修学旅行で、遠出にはしゃぐ私と彼女たち。満開の笑顔で写る私を見て―楽しかったな、と思い出した。あの日の明るい笑い声が聞こえた。瞬間を素直に楽しむ私たちが、そこには居た。一点の曇りもなく「美しい私たち」が。
もう、呪いは解けて消え去った。残ったのは、どこまでも尊い、私たちの「真実の美しさ」だけだった。
【概要】
詩人・作家のオリヴィア・ガトウッドによってインスタグラム上で開始された、"Girls of Isolation"ムーヴメントを通して、外的な造形に依らない自身の価値観としての「美しさ」を、実際にセルフポートレートを撮影しつつ解き明かす。
○意図と目的
10代をsnsと共に過ごした私は、自身の写真が不特定多数の他者へ晒されることに嫌悪感を抱いていた。特定の要素を備えている=「美しい」という基準で容姿を判断されてしまうからだ。しかし「美しさ」とはそのように単純な基準で決定されるものなのだろうか。「美しさ」の価値基準とは、生まれながらにして持っているものではなく、他者からの目線を通じて獲得したものではないだろうか。
"Girls of Isolation"は、この問いへのヒントを与えてくれる。ガトウッドは、コロナ禍で自主隔離中の人々にセルフポートレートの撮影を呼びかけた。集まった写真には、人種・年齢・体型など全く異なった人々が含まれている。それらからは画一化されない自然の「美しさ」を感じた。
彼女たちと同じように、私自身もセルフポートレートを撮影する。自分自身と向き合い、約1000枚に及ぶセルフポートレートを撮影した。1つの作品を完成させることで内側から湧き上がる「美しさ」の正体を考察する。
多様性が叫ばれながらもルッキズムで溢れている現代社会。本作品を通して「美しさ」に含まれる様々な呪いを取り除き、何者にも流されない自身の「美しさ」を明確にしたい。その結果として、読み手のもつ美的価値に新たな気付きを与え、読み手自身の「美しさ」に向き合ってもらい、外見至上主義の現代社会へ警鐘を鳴らすことを目的とする。
○章立て
1章「規定された『美しさ』とルッキズム」、2章:「"Girls of Isolation" から感じた、新たな『美しさ』」、3章:「セルフポートレート撮影 私の『美しさ』とは」、4章:「私は、あなたは、彼は、彼女は『美しい』」
【註】
(註1)西倉実季・堀田義太郎(2021)「外見に基づく差別とは何か」、『現代思想』49(13)、p8,15、青土社。
(註2)ROSE MINUTAGLIO「The Hauntingly Beautiful Self-Portraits of 'Girls of Isolation'」、『ELLE』、https://www.elle.com/culture/art-design/a32150571/quarantine-self-portrait-olivia-gatwood-instagram/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
(註3)girlsofisolation「submit」、https://www.instagram.com/girlsofisolation/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
(註4)girlsofisolation「4.1.20」、https://www.instagram.com/p/B-dvkQbF3b7/?igsh=MTd4cDY0d3NtdHJo、2020年(2025年1月13日アクセス)。
(註5)ROSE MINUTAGLIO「The Hauntingly Beautiful Self-Portraits of 'Girls of Isolation'」、『ELLE』、https://www.elle.com/culture/art-design/a32150571/quarantine-self-portrait-olivia-gatwood-instagram/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
(註6)Alessia Cara 「Scars to Your Beautiful」、『Know-It-All』、Def Jam Recordings、2015年。
(註7)ROSE MINUTAGLIO「The Hauntingly Beautiful Self-Portraits of 'Girls of Isolation'」、『ELLE』、https://www.elle.com/culture/art-design/a32150571/quarantine-self-portrait-olivia-gatwood-instagram/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
【参考文献】
Alessia Cara 「Scars to Your Beautiful」、『Know-It-All』、Def Jam Recordings、2015年。
girlsofisolation「submit」、https://www.instagram.com/girlsofisolation/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
girlsofisolation「4.1.20」、https://www.instagram.com/p/B-dvkQbF3b7/?igsh=MTd4cDY0d3NtdHJo、2020年(2025年1月13日アクセス)。
ROSE MINUTAGLIO「The Hauntingly Beautiful Self-Portraits of 'Girls of Isolation'」、『ELLE』、https://www.elle.com/culture/art-design/a32150571/quarantine-self-portrait-olivia-gatwood-instagram/、2020年(2025年1月13日アクセス)。
西倉実季・堀田義太郎(2021)「外見に基づく差別とは何か」、『現代思想』49(13)、p8,15、青土社。
飯塚 千紗 【同窓会賞】
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