写真・映像コース

【現代美術/写真】「不自由さ」から。

報道と現実

 

現代美術/写真コースでは、1年生の内から4×5(シノゴ)という大きなカメラを担いで

自分の足で歩きながら、それぞれの立ち位置で写真を撮っていきます。

たまに、黒い布を被りながら、何かを覗き込んでいる人を見たことがないでしょうか?

それ、多分、うちのコースの子です。

 

この4×5、見た目通り、本当に重いんです。

大学内で撮影、しかも今の時期となると、あらゆる坂を暑い中歩き回ることになります。

 

4×5という鉄下駄を履きながら、ひとりで黙々と撮り続ける。

 

……

 

何度、心が折れそうになったことか。

 

 

という本音もありますが、やはり、4×5で撮った写真の解像度は

他の写真と比べるのは気が引けてしまうぐらい、緻密で驚きます。

環境や温度、4×5の重み等…ある種の「不自由さ」の中で、

私たちのコースでは写真を撮り続けていました。

 

その「不自由さ」の中で学んだことと言えば、

「現場を自分で歩いていくことの重要性」であったかな、と思います。

 

 

以前授業で、「報道」についての話が出たことがあります。

これについては、様々な見方があると思われます。

物事をドラマチックに編集したものほど、受け入れやすさが増す

という要素が、少なからず孕んでいるからかもしれません。

 

感情に投げかけられたものほど、響くものです。

フォトジェニックな写真ほど、自分の中に取り込みたくなる。

 

しかし、それは時に、利用出来る/されてしまうことでもあると気づかされます。

 

 

見えること/見えないことの狭間に、私たちは居るように思われますが

個々のそれが、現実での割合とどれほど合っているか、違っているかは分かりません。

だからこそ、何かしらのイメージと付き合おうとするには

手を動かして実際に調べて、動いて、考えるしか、それを知る手がかりはありません。

見えること(visible)を通じて、見えないこと(invisible)へ向かうことが

「報道」との関わりの上でのひとつの要素であり、

自身で何かを調べていく上で必要なことなのかな、と感じます。

 

 

「報道」については一筋縄ではいかない部分もありますし

問題が孕んでいるからといって、誰もが悪意を持って作り出しているという訳でもない。

だからこそ、それに対してどういったスタンスで向き合うかを明確にするかが

個々が意識出来る唯一のことでもあると思います。

 

 

…それがまた、難しいんですけどね!

だから、自分で悩んで考えながら、探っていくのが手っ取り早いかなと。

百聞は一見にしかず!!です。

 

間接的に情報を受けて、自分の言葉で語れるのも立派だけど、

「不自由さ」を担いで自分で歩いてみるのも、また良いものですよ。

 

 

 

美術工芸学科/現代美術コース 3回生 唐鎌なつみ

 

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