- 2013年7月29日
- 日常風景
【現代美術/写真】「不自由さ」から。
現代美術/写真コースでは、1年生の内から4×5(シノゴ)という大きなカメラを担いで
自分の足で歩きながら、それぞれの立ち位置で写真を撮っていきます。
たまに、黒い布を被りながら、何かを覗き込んでいる人を見たことがないでしょうか?
それ、多分、うちのコースの子です。
この4×5、見た目通り、本当に重いんです。
大学内で撮影、しかも今の時期となると、あらゆる坂を暑い中歩き回ることになります。
4×5という鉄下駄を履きながら、ひとりで黙々と撮り続ける。
……
何度、心が折れそうになったことか。
という本音もありますが、やはり、4×5で撮った写真の解像度は
他の写真と比べるのは気が引けてしまうぐらい、緻密で驚きます。
環境や温度、4×5の重み等…ある種の「不自由さ」の中で、
私たちのコースでは写真を撮り続けていました。
その「不自由さ」の中で学んだことと言えば、
「現場を自分で歩いていくことの重要性」であったかな、と思います。
以前授業で、「報道」についての話が出たことがあります。
これについては、様々な見方があると思われます。
物事をドラマチックに編集したものほど、受け入れやすさが増す
という要素が、少なからず孕んでいるからかもしれません。
感情に投げかけられたものほど、響くものです。
フォトジェニックな写真ほど、自分の中に取り込みたくなる。
しかし、それは時に、利用出来る/されてしまうことでもあると気づかされます。
見えること/見えないことの狭間に、私たちは居るように思われますが
個々のそれが、現実での割合とどれほど合っているか、違っているかは分かりません。
だからこそ、何かしらのイメージと付き合おうとするには
手を動かして実際に調べて、動いて、考えるしか、それを知る手がかりはありません。
見えること(visible)を通じて、見えないこと(invisible)へ向かうことが
「報道」との関わりの上でのひとつの要素であり、
自身で何かを調べていく上で必要なことなのかな、と感じます。
「報道」については一筋縄ではいかない部分もありますし
問題が孕んでいるからといって、誰もが悪意を持って作り出しているという訳でもない。
だからこそ、それに対してどういったスタンスで向き合うかを明確にするかが
個々が意識出来る唯一のことでもあると思います。
…それがまた、難しいんですけどね!
だから、自分で悩んで考えながら、探っていくのが手っ取り早いかなと。
百聞は一見にしかず!!です。
間接的に情報を受けて、自分の言葉で語れるのも立派だけど、
「不自由さ」を担いで自分で歩いてみるのも、また良いものですよ。
美術工芸学科/現代美術コース 3回生 唐鎌なつみ