- 2015年12月29日
- 日常風景
【教員紹介】第7弾:服部滋樹先生
「情報デザイン学科をもっともっと知ってもらいたい!」
ということではじまった、インタビュー企画の第7弾!!
今回は、”デザインで社会を変えるトップランナー”、服部滋樹(はっとりしげき)先生のご紹介です。
主な授業:情Dコース2年次「コミュニケーションデザイン論」
主な授業:情Dコース3年次「構想計画—リアライズ—」
服部先生は、大阪を拠点に多岐にわたるクリエイティブ活動を展開する会社 graf *の代表を務めておられ、
近年では地域再生などの社会活動にもその能力を発揮されています。
graf *|家具、空間、グラフィック、プロダクトデザイン、アートから食に至るまで
「暮らしのための構造」を考えてものづくりをするクリエイティブ集団。
既存のジャンル分けを明るい笑顔で飛び越えながら、
「暮らすこと」を軸に各方面で精力的な活動をされている服部先生。
今回は、情D学科でコミュニティデザインについて学ぶ学生が
服部先生のデザイナー観やgraf設立の経緯についてせまります。
学生自身の作品についてコメントをする場面など、他ではあまり見られない
”先生としての服部滋樹”もお楽しみください!
(服部先生の詳細なプロフィールはこちらからご覧いただけます。)
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話し手|情報デザイン学科 教授 服部 滋樹 先生
インタビュアー|情報デザインコース 3年生 小野 七海 さん
小野(以下、小):私は滋賀県出身なんですが、服部さんは滋賀県で「むすぶ滋賀」というプロジェクトをされてますよね?大阪出身の服部さんがどうして滋賀県でお仕事を?
服部(以下、服):10年くらい前に滋賀県の農家の方とたまたま友達になって、そこに出入りするようになったのがきっかけですね。grafとしては8年前に畑をはじめたんです。「畑をやりたい!自分で育てたものを食べたい!」ってことで、じゃあやってみようとはなったものの、メンバーの誰も畑なんてしたことがなくて。畑についてあまりに何も知らないものだから、近所の人や農家の知り合いが「土を耕して半年くらいは肥やさな!」とか「もっと早く収穫せな!」とかアドバイスをくれたんです。何度もコミュニケーションをとって関係ができていく中で、逆に彼ら農業を営む側の問題も見えてきました。例えば若手の人たちは顔の見える人のために作物を育てたいって思うけど、彼らのお父さん世代は農協の人たちなんですよ。農協っていうのは言ってみれば ”問屋さん” で、作物を生産者から小売店に流していく役割です。問屋さんが流通の間に入ると、野菜を作る人と買う人が、お互いにどんな人なのかがわからなくなる。若手の人たちはそれをいやがっていて。そういう問題を見ていくうちに、雑誌のMeets Regionalとも一緒に畑をすることになって、雑誌の記事にもなりました。
小:実は、田舎生まれ田舎育ちの私には、わざわざ苦労して畑を始める意図がわからないです(笑)
服:わからないよねえ(笑) 野菜は八百屋さんから買うのが一番いいけど、今はそういうお店がなくなってしまい、大型スーパーとかになってるよね。物を買うときにコミュニケーションをとることがなかなかむずかしくて寂しい。僕の子供の頃は八百屋さんや肉屋さんがあって、肉屋さんのコロッケを40円で買いに行ったりしたんです。それが美味しいんですよ。魚屋さんに行って、ちくわを買ってザリガニ釣りにいったりとかね。でも最近は大阪の都市部に住んでるからそういうコミュニケーションがなくなってしまったので、「自分たちで育ててしまおう!」ってなるわけです。
小:ずっと思ってたんですが、すごく忙しそうにお仕事されているのに、疲れている様子もあまり見せず、むしろいつも楽しそうな印象があります。服部さんが45歳に見えないのは、何かを育てていることが関係してるんですかね?
服:いや、それは君たちのおかげですよ。エキスを吸わせてもらってるんでしょうね(笑) ナガオカケンメイさんにも「なんでずっと大学で教えてるの?」って聞かれたことがありますが、僕は学生と話すのが楽しくて。課題を出すってことがどれだけ自分のクリエーションへのフィードバックになってるのかがわかります。実は、学生時代は大学の先生に興味がなくてね。先生という存在をあまり信じてなかったんです。大学時代からずっと研究、研究、研究で、大学の中でしか生きたことがないのに、人にモノを教えてる奴なんてクソやと思ってました(笑) 先生なんて社会経験を重ねないとできないと思ってて。なので、29歳くらいに一度大学からのお誘いいただいた時は「今の仕事が楽しい」って理由で断りました。33、34歳くらいの時に「そろそろいいかな」って思うきっかけがあって先生のお仕事を受けて、それからもう11年くらい大学で教えています。今でも、やっぱり自分には社会経験があるからこそ、実際の社会に基づくことを教えられるんだという自信があります。
小:大学を卒業した直後はどんな活動をされていたんですか?
服:僕が学部を卒業した頃が、ちょうどバブルがはじけた時期で、周りで就職活動をしてた友人たちもほぼ決まってなかったんです。二つ上の先輩なんかはバブル真っ盛りだったから楽に就職できていました。SONYやSHARPというような大手企業から内定をもらえたりね。企業はリクルーティングに必死でした。で、一つ上の先輩の時にバブルがはじけて一気に何もなくなって、とにかく凄い状況になった。それを目の前で見ていたから、社会に出た時に自活できる状況を自分で作らなければと思って。その頃からgrafのことを考え始めていました。でも当時はもうちょっと彫刻を勉強したくて、宝塚造形大から神戸大の教育学部彫刻学科に大学院の研究生として入りました。そこで1年半ほど制作をしてから、grafを立ち上げる決意をもって大学院をやめました。
小:grafをつくったときのことをおしえてください。
服:みんなで30万円ずつ持ち寄って、6人合わせて180万円を用意しました。バブルが崩壊した頃は誰もが自分のことに必死で、スポンサーなんていうのはなかった。ほかの誰かを支援する気になる人なんてあまりいなくてね。唯一そういう機運が高まったのは神戸の震災です。震災では神戸大時代の友人が何人も死んだし、住んでた寮もつぶれた。その時にいろいろ考えました。やっぱり自活しなきゃ生きていけないんだなって。
従来の日本はずっと縦型のピラミッド社会だったけど、バブルが崩壊して、そういう枠組み自体もくずれ落ちた気がして。縦型社会よりも横型社会を作りたいんです。縦型っていうのはつまり、生産者がいてメーカーがいてユーザーがいるものなんですが、そうするとメーカーが一番強くなってしまう。メーカーが安くていいものを作れって指示を出して、生産者が苦労して嫌になって中国に工場作って生産を始めると、技術も仕事も向こうに流れていく。大学時代からこの構造自体がダメだと思ってたんですが、やっぱり崩壊していきました。本当は、職人さんたちとかおじいさんたちっていうのが僕らの先生で、その人たちと共に生きる方法、一緒に長く生きていく仕組みを作ってかなきゃいけないんですよ。grafも会社っぽいけど会社っぽくなくて、名刺には肩書きを一切書いていないんです。いちおう僕が代表取締役社長やけど、20歳のスタッフであれ40歳のスタッフであれ、名刺には会社名と名前だけ。それがフラットな社会、会社のちょっとした主張です。
小:服部さんは学生にも気さくで平等なイメージがありますが、人への接し方もそういう考えが関係しているのでしょうか?
服:そのイメージは嬉しいですね。肩書きを気にしてる人って、世の中に結構いるじゃないですか。肩書きっていうハードルによって誰が得するのか?ってすごく思います。その人の置かれている立場は理解するけど、肩書きの話をされたところで ”あなた” とのコミュニケーションが円滑になるのかっていったらそうじゃない。立場からの言葉が聞きたいわけじゃなくて、むしろ “あなた” からの言葉が聞きたいわけです。立場とかにだまされたくない。
小:実際にそういう場面を経験されてきたんですか?
服:まあ20代の時にgrafを立ち上げてから、”アンチ社会”とか言ってたしね。そういうことを偉そうに言っていたのは、実のところ自分も弱い立場にいて、お金もないし、立場として肩書きがあるわけでもなかったからですよね。ただ、自分たちだけで積み上げてきたブランドの力とか、それを信頼するユーザーと仲間がいることが僕らの強みだったと思います。若い時は社会と戦う気分でいた時代もあった。昔の雑誌の記事なんか、カメラをにらみつけたり、すごい偉そうなポーズをしてたりします。ロン毛だったりね(笑)
小:えー!(笑)
服:昔のことだよ!時には年齢をごまかしたりもした(笑) 28歳当時に「僕35歳です」って年上の人たちに言ってみたり。20歳そこらでスタートしてたから、なめられたくないという思いがあったんですね。
小:今は変わりましたか?
服:45歳になる寸前から、あらゆる人と話してるうちにだんだん変化していきました。たとえば、よく行くお好み焼き屋のおばちゃんが突然「つむじ見せてみ!」って、つむじで占ってくれたんですけど、「あー、服部くん35歳過ぎたら調子よくなるで。今まで苦労してきたやろけど頑張りや」とかね。そんないろんな話が、ものづくりを通して僕たちがやりたいことの構想づくりの力になってくれるんです。そういう経験が重なっていくうちに、先輩の世代もわるい奴らばかりじゃなくて、同じような意識を持った人たちがいるって気づきだしました。
「人間にはそれぞれの年代の役割がある。昔の武士もそうで、15歳で改名制度があり、そこでこれから生きていく自分の人生を決める。農家から武士になりたいと思ったらまず改名して、15歳から5年間で武士になるための知識を身につける。20歳になったらそこに実践を加える。20〜30歳は経験を積み上げる。30歳から仕事に変わる。30〜40は仕事を通して実践しろ、40〜50は同じ意識を持った人から学び、学ばせろ。50歳から先は教授しろ。」これも昔に言われた話なんですが、今の世も変わってないなって思います。今は15歳の若さで人生を選ぶことはなかなかないけど、社会に出てからの流れはほぼいっしょですよね。この話と同じように、20代、30代、40代でだんだん変わってきました。
小:40代になった今はどうですか?
服:30代の前半から「漆や陶芸等の産地を元気にしてほしい」っていう依頼が増えてきて、40代になってからは地域を活性化する仕事とか、社会や産業に直接関わる仕事が多いです。結局grafは、モノを生み出すまでのプロセスもデザインするし、モノ自体もデザインして、アウトプットされたものをどこに届けるかというところまでをもデザインする。これって過去の先輩デザイナー達はやってこなかったことだと思います。僕らの世代ではデザインって最初から最後まで立ち会わないとだめなんですよ。
小:そのすべての過程のなかで、服部さんはどこが一番得意なんですか?
服:僕はブランディングディレクターとして雇われるケースと、デザイナーとして雇われるケースがあって、自分では前者の方だと思います。ブランディングディレクターというのは、まずなんとなくビジョンを描いてからリサーチヒアリングを繰り返していくんだけど、「服部さんの思い描く“ここ”に向かっていきたい」って、みんなに思ってもらえるように伝えられることが一番最初に必要な能力。リサーチを進めていくと、欠けているグラフィックやプロダクト等が見えてくる。そうして必要なものをキャスティングしていく。僕は俯瞰すること、ディティールを描くこと、両方とも得意です。でも最近の優秀なデザイナーはディレクションも絶対にできますよ。
小:でも、デザインを学んでいる私たちとしては、社会的な要素も含めてすべてデザインしようとするのはむずかしいです。3年生の他の領域 * では、情Dの過去の先輩たちが作ってきたものが参考例としてあるのに比べて、コミュニケーションデザインを専門的に学ぶC領域では過去になかったような課題が出るので、まず手本になる参考例を自分で探すところから始めないといけなくて。
領域 * |情報デザイン学科では、3年次から5つの「領域」に分かれて研究・制作に取り組みます
服:それが大事なんですよ。実際に今の多くのデザイナーにとってもむずかしいことなんだけれど、それを学んで卒業できるのは君たちだけだと思いますよ。結局、いま社会に求められてるのは、問題発見能力が高いかどうかってことだからね。
小:それは私も実感があります。課題をする時に、たとえモノがよく出来ていても、問題として掲げるテーマがよくなかったらそれまで。問題発見がちゃんとできていたら、モノが多少よくなくても頭に残る節があります。
服:もちろん最終的にはモノがよくあるべきですよ。でもまず考えのきっかけ自体が問題発見からスタートしているというところが大事で、それをできるヤツが本当に求められてる。
小:私たちのいま学んでることってたぶんどこでも活かせるんだろうなあとは思うんですけど、だからといって「この仕事!」っていう具体的な目標が見えているわけじゃないから、正直なところ、どこに向かったらいいかわからないという気持ちもあります。プロダクトでもグラフィックでもデザイナーは”考える能力”が優れていればいいはずで、今はその勉強をしているから”形を作る” とか ”仕事をするにあたっての具体的なリサーチ”は次の段階に入ってから学べばいいとは思います。いろんな人からもそう言われ、そうだなとは思うんですが、でもやっぱり、どこに向おうか考えると不安にはなります。
服:でも君たちは課題を作るのにも、ものすごくリサーチしているから、ほかの人よりたくさん作品を見てるはずですよ。ものを見るっていうのは絶対に必要です。自分のなかに比較対象が生まれるから、そのフィードバックとして、自分がデザインできているかどうかもはっきりするし、その対象物を見て「あれはああだけど私はこう思う」っていうのがはっきりする。出来るモノのクオリティは見るモノで変わるはずです。
ー ここで話題は、小野さんが製作した作品「フィッシュアンドチップス」へ
服部先生の授業課題「周囲◯kmの問題発見とデザインによる解決」において、滋賀県出身の小野さんは、ブラックバスを使ったフィッシュアンドチップスを企画・制作しました。
滋賀県では琵琶湖に繁殖するブラックバスが在来種の魚を食べ減少させていることが問題視されていて、県では ”ブラックバス回収ボックス” を設置するなどの対策を取っています。現在は回収されたブラックバスの多くが焼却処分されているとのこと。
小野さんは、本来は食用としても輸入されたはずのブラックバスを美味しくいただこうと、加工食品としての商品化に乗り出しました。
第一弾は滋賀県のかまぼこ会社さんの協力のもと、ブラックバスを使ったかまぼことさつま揚げを作っていただき、地酒をつけたギフトセットを制作。
第二弾として、フィッシュアンドチップスを制作しました。
小:今回の制作で、モノゴトの流れが幅広い視点で見えました。ブラックバスが流通しない理由とか、今まで商品化できなかった理由など、県や漁業組合の人や他にもいろんな人に話を聞くことで、流通の流れや問題がなんとなくわかったんです。それで思ったのですが、そういった流れって、私たちの力で変えられるものなんでしょうか?
服:あえて答えを出すのであれば、自分たちの手で変えなかったとしても、「ここに問題点があるよ」っていうことをちゃんと発信していかなきゃだめです。「そうか」って、うなずき合う瞬間に、モノゴトは変わり出すからさ。
小:でも社会を変えるには小さすぎる一歩ですよね。
服:もちろん小さな一歩やけど、でもまず問題を発見できてなかったら、回答っていうものに意味がなくなってしまうじゃない? この作品で言うと、単にブラックバスのフィッシュアンドチップス作りました、で終わったら意味がないわけで。この作品が出来るまでの説明がなかったら、これに価値があることも分からない。だから小野さんがフィッシュアンドチップスに取り組んだのはすごい意味があったと思います。プレゼンテーションする時に、流通の問題をはらんでるっていう説明を入れたり、この部分がやっぱり問題だっていうのをもっと強調した方が良かったですね。
小:制作途中で学生としての限界を感じて、迷いが生じたところもあるんです。
服:学生だけじゃなくて、あの問題に気づいて取り組んだ人なら、どんな人でも流通の問題にブチ当たったはずですよ。でも今回はプロセスがよかったし、最終的にフィッシュアンドチップスっていう誰もが知ってるフォーマットに落とし込むことで、いい仕組みをデザインできてたんじゃないかなって思いますよ。
小:ありがとうございます。これからもよろしくお願いします!
記事/小野 七海
写真/常 程(情Dコース 3年生)
《服部先生に聞いた! 20歳のときに読んでおきたかった本 3選 》
「パスワード」 ジャン・ボードリヤール 著(NTT出版 、2003年)
「地球・道具・考」 山口昌伴 著( 住まいの図書館出版局、1997年)
「今和次郎 採集講義」 今和次郎 著( 青幻社、2011年)
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相手が誰であれ、変わらない態度で人の心をそっと刺激するように話す服部先生。
その人懐っこさの裏側では、学生の頃に感じた「この社会はおかしい」という問題意識や、
「自分たちがそれを変えていく」という情熱をずっと抱き続けていらっしゃいました。
”先生”としてだけではなく、”一足先に社会に挑む先輩”として、
これからも服部先生のご活躍が楽しみです!!!
この企画は、約ひと月に1回のペースで更新する予定です。
2015年の情Dブログはこれで最後になりますが、
次回インタビューもぜひご期待のうえ、皆様よいお年をお迎えください◎
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スタッフ:森川
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