五感の多層的描写がもたらす物語世界の構築
~感覚と記憶の相互作用に着目して~
(大学院)文芸領域 矢追佳代子
<作品名>
金木犀の風の吹くころ
倉田安沙子は中学三年の晩夏、最愛の祖母・結子の急逝に直面する。母・実沙代との確執や水泳選手としての挫折感を胸に抱えたまま高校へ進んだ安沙子にとって、結子の遺品が眠る古い蔵は、祖母の知られざる一面――フィレンツェへの憧憬や教会の椅子に象徴される孤独な時間を知る大切な場所となる。
物語は章ごとに視点を変え、かつて結子が周囲に与えた影響と隠された縁を浮き彫りにしていく。同級生の修二は、自身の夢を結子に肯定してもらった記憶を懐古し、牧師の片山はフィレンツェで出会った結子への淡い思慕と、彼女が愛した金木犀や藤袴の香りを反芻する。転校生の夏代は安沙子と意気投合し、共に茶道部へ入部して穏やかな友情を紡いでいく。
クラス担任であり茶道部顧問の佐々木悠悟の登場が物語の転換点となる。保護者面談の場で、悠悟と実沙代は互いが異母姉弟であることを確認し合う。悠悟の父・佐々木慎吾は、かつて結子が結婚前に愛した人で、実沙代の実父だった。結子は慎吾の子を身ごもったまま別の男性と結婚したあと慎吾の子を産み、のちに離婚していた。実沙代と悠悟は桂花植物園での思い出を共有し、再会した奇跡を静かに噛みしめる。
安沙子は生前の結子から、母の実父が結子の夫とは別人であることを知らされていた。父・剛士と共に銀座の老舗香水店を訪れた安沙子は、祖母が愛した香りを求め、結子の気持ちが生涯にわたり慎吾に向けられていたことを推察する。剛士は安沙子の成長に驚きつつ、娘の行動を見守る。
茶道部の夏合宿では、悠悟が父・慎吾から借りた金木犀の描かれた白磁の水指を披露する。それは安沙子が部活で使う結子の形見の茶碗とよく似ており、同じ作家のものだった。互いに離れて生きた慎吾と結子が同じ作家の道具を大切にしていた事実は二人の魂の静かな共鳴を物語っており、悠悟はその縁を密かに噛みしめる。悠悟が慎吾の息子であることを知らない安沙子は不思議な符合に戸惑いつつ亡き祖母へと想いを馳せる。
安沙子が高校二年の晩夏、片山が営む教会への遺品寄付をきっかけに、安沙子と実沙代の間にあったかつてのわだかまりが解けていく。母娘を牧師に引き合わせた、安沙子の後輩・マリは、安沙子の言葉から、牧師と結子の間にあった秘められた糸の昇華を見る。過ぎ去った時間をひぐらしの声が優しく包み込み、もうすぐ金木犀が咲く秋の訪れを予感させる。
矢追佳代子
(大学院)文芸領域
心の機微を描く物語の創作を目指し、文芸領域に入学しました。
本作『金木犀の風の吹くころ』は、祖母の急逝により次第に浮き彫りとなる秘められた過去の繋がりと、残された者たちの内的再生を一人称多視点で描いた物語です。
執筆の核としたのは、言葉を介さない「繋がり」の描写です。金木犀の残り香、晩夏のひぐらし、茶室の静寂といった五感の記憶が、人と人の縁を静かに編み直していく過程を、三世代の母娘を軸に描きました。
血縁にかかわらず、誰かを大切に想う気持ちは普遍的な輝きを持っています。 様々な愛の形を五感の多層的表現で織りなすことにより、すべてをわかり合えない寂しさを抱えつつも深い部分で心が響き合う瞬間を描き出そうと試みました。
過去への郷愁と現在の痛みが交錯する中で、新たな季節へと踏み出すかすかな希望の息吹を感じていただければ幸いです。
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