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(大学院)文芸領域 姫井 友子

受動的選択による属性と個性の関係

<作品名>
彼女のことを誰も知らない

修士制作「彼女のことを誰も知らない」は12人の語り手が呼ぶ主人公、戸森一葉の呼称をテーマとした小説である。家族や友人、同僚との関係を断片的に切り取り繋いだ物語だ。
自転車競技の最中、主人公の一葉は慣れない婚姓で誰かに呼ばれたことにより、集中力を欠き、落車してしまう。自分のゼッケン番号や婚姓を聴きながら意識が遠のいていく場面から物語は始まる。
惣史は一葉にプロポーズした時、彼女を怒らせてしまう。一葉の思い描いていたプロポーズとは違っていたからだったが、名前が変わることへの葛藤を口にするものの、一葉は結婚の道を選ぶ。
母の沙都子は娘を「ひいちゃん」と呼び、一葉にも孫の葉子にも自分を「さっちゃん」と呼ばせている。母や祖母を意味する呼称では呼ばせない。母の友人が呼ぶ旧姓に、結婚してから15 年も経っているのに、一葉は反応してしまう。
ママ友は一葉を娘の名前から「ハコちゃんママ」と呼ぶ。娘からは「ママ」、妹からは「ねーちゃん」、飼い犬ククの散歩仲間からは「ククちゃんママ」、同僚や友人は夫の惣史のことを戸森、娘はハコ、一葉を旧姓の宇高と呼んでいる。
幼馴染のサナは一葉を幼い頃から「ヒトちゃん」と発音できず「イトちゃん」と呼ぶ。一葉との親密さを表現するその呼称はサナには特別なものであり、大切な呼び名となっていた。
時に「サイクリスト」であり、時にハンドルネームの「UNO」、家族の間では「この子」や「嫁」「長女」という顔も持っている。周りにいる人と主人公のエピソードは日常に普通に見られるものだが、対峙する相手ごとに呼称は違っている。
結婚が決まり役所へ婚姻届を出しに行くと、渡された受付番号の札にあった17番という数字で呼ばれ、旧姓から婚姓へと変わる瞬間に一葉は虚しさに似た寂しさを感じていた。結婚しても旧姓のまま働くことを選択した一葉は戸籍上の名前や銀行の口座名などの名義は変わったものの、婚姓へと変わったことによる影響は手続きの手間程度だと感じていた。

冒頭の自転車事故後のシーンに戻り、家族たちが様々な呼称で自分を呼んでいるのを聴きながら一葉の意識は遠のいていく。
気付くと自分の葬儀が行われている会場を一葉は人知れず見ていた。祭壇には故人として婚姓の「戸森」が掲げられていたが、そこには初めて見る戒名もあった。出棺のとき、思い思いの呼称で一葉を呼ぶ家族と知人たち。最後に一葉は生まれた時と同様に名を持たず、ひとり旅立っていった。

姫井 友子

(大学院)文芸領域

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