座標軸を用い、二重の視線で構築する物語の試み
(大学院)文芸領域 藤井 佐和子
本作『蝶のゆめ ―Le désir du papillon de nuit pour l’étoile―』は、2010年から2025年の社会的変動を背景に、格差と揺れを座標軸として、主人公・清水惟子が模倣から自己受容へ至る過程を描く物語である。北斎『牡丹に蝶』の造形を格差の対比として用い、さらに『グレート・ギャツビー』の「緑色の光」、シェリーの詩句、ボルヘスの美学概念を重ね、象徴体系を構築した。
舞台は坂道によって分断された架空の街・霞美と零。霞美は上昇志向、零は混沌と不安定さを象徴し、惟子は両者を往還しながら自己形成を試みる。物語は2025年(二次視線)の惟子の回想から始まり、2010年の体験(一次視線)に重ねられる。
2010年、惟子は「何者かになりたい」と願い、友人の悦子と真由に支えられながら零から霞美へ通い始める。北窓から見上げる山並みは格差の象徴だった。輸入インテリア店「L’étoile en soi」のオーナー・柏木環との出会いは惟子の価値観を揺さぶる。諸資本を備えた環は手の届かない星のような存在であり、惟子はその美意識や所作を模倣しながら自らを磨き、上昇を願う。
しかし、二人のあいだには世代・階層・価値観の差が横たわり、憧れと違和感、忠誠と葛藤のあいだで揺れ動く。豪邸での提案、顧客とのすれ違い、価格と価値の矛盾を経験し、惟子は空間表現の責任と限界を知る。初めて自分の提案が認められる一方で、環の精神性と現実との乖離にも気づき始める。
やがて、対峙すべきは環ではなく「時代」であり、二人の関係は補完であると理解する。しかしその矢先、環は店の閉店を告げる。崩れた牡丹の記憶に象徴資本の崩落を重ね、惟子は深い喪失に包まれる。悦子と真由は「循環」や「再生」という視点をもたらし、惟子は零の街を受け入れ、再び歩き出す決意を固める。
2025年、惟子はカウンセラー美芽の依頼で北窓採光を活かした空間を提案する。かつて格差の象徴だった北窓は、心を軽くする光の源へと変わっていた。美芽の「光を届ける場所に」という言葉は環の面影を呼び起こす。AI時代に自信を失っていた美芽が惟子の空間に背中を押されたと語ったことで、惟子は求めていた光が「内なる星(L’étoile en soi)」として自分の内に灯っていたと気づく。環から継承した美学は鏡の模倣ではなく、プリズムのように多様な色を放ち始めていた。
見出した光は、過去を資源として再解釈する光であり、光を分かち合うことこそが「何者かになる」ことであると悟る。惟子は「空の器」として自己を受容し、未来へ向かう。
藤井 佐和子
(大学院)文芸領域
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