心は高く鼓動する。しかし私はそれについて行けないのか。
(大学院)写真・映像領域 古野 達也
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《 心は高く鼓動する。しかし私はそれについて行けないのか。 》 2026 Pigment print
武蔵野台地の輪郭をひたすらに歩き、写真を撮った。
撮った写真の中から、単なる記録だと言いたくないものを選び、ここに並べた。
選んだ写真を見ていると、私の中で、何かがゆっくりねじれていくような感覚を得る。
薄く細長い金属板がねじれ、エッジが二重螺旋状になる様を見ているかのようだ。
その交わらない二重螺旋にどこか救いを覚えるが、そんな妄想は固定されず消える。
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本作品は、修士論文「写真で詩を捉えること」における『写真が詩を捉え得ることを示す』という主張の論証に伴って行った実践結果である。
論文では、写真家ウォーカー・エヴァンズ、白岡順、清野賀子の写真と、詩人フリードリヒ・ヘルダーリンをめぐる言説をもとに、写真が詩を捉え得ることについて考察した。
従来のヘルダーリン研究で、その詩作の形式的特徴として「パラタクシス」が明らかにされている。これは、言語の厳密な連関を回避し、詩中の複数イメージを水平的に連ねる詩的技法である。この技法を用い、ヘルダーリンは総合的判断の言語によって世界が一元化することへ抵抗したとされている。
筆者は、「パラタクシス」を結節点に、三名の制作がヘルダーリンを指向していた仮説を立て、制作の構造や動機からこれを検証した。その結果、感性に従い撮影された各々の写真は、論理的で具体的な関連性に乏しいが、作品全体としてある一つの概念とも呼べる全体像を表出させる構造を備えていることを見出した。そして、エヴァンズは現実の超越、白岡は感性を通じた美の探求、清野は現実に備わる多義性の顕在化と、三名の制作もまた、内的な領域と現実が呼応した、形而上の事柄への探求であった。よって、三名の制作は「パラタクシス」の実践で、ヘルダーリン詩作が指向する領域へ通ずると結論づけた。
この結論をもとに、エヴァンズ、白岡、清野の制作のオマージュを目指し、筆者自身が写真に詩を捉えることを実践した。筆者の生活の場である武蔵野台地の輪郭の記録という即物的な行為を通じ、現実を多義的に開く詩の表出を試みた。
1-16-34, Niikura, Wako-shi, Saitama 7th March, 2025
2, Negishi, Taito-ku, Tokyo 21th April, 2025
2, Okamoto, Setagaya-ku, Tokyo 6th February, 2025
3-31, Minamitanaka, Nerima-ku, Tokyo 20th February, 2025
5-2, Kitami, Setagaya-ku, Tokyo 13th November, 2024
5-2, Kitami, Setagaya-ku, Tokyo 6th February, 2025
4, Fujimidai, Nerima-ku, Tokyo 20th February, 2025
1-4, Mejiro, Toshima-ku, Tokyo 9th April, 2025
1, Noge, Setagaya-ku, Tokyo 6th February, 2025
2, Akabanedai, Kita-ku, Tokyo 5th June, 2025
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