トラウマとスティグマにより零れ落ちるサバイバーズ・ナラティブを物語化する、記憶、歴史への文芸的試み
ノンフィクションからフィクションの坂を上る
(大学院)文芸領域 中村純 (飛鳥純)
領域奨励賞
『浅草キャッスル』
公認心理師の藍は、不登校の中学生の息子の昴と押し問答をして怪我をさせてしまい、咄嗟に家出をして港区芝浦のマンスリーマンションでひとり暮らしている。
藍は、年度末で男女共同参画センターを雇止めになり、同僚に浅草のクリニックの仕事を紹介された。担当することになったのは、マッサージ店で働き、赤ん坊を死なせてしまった若い女性、七海だった。
藍には30年前まで東北出身の祖母のトシと浅草キャッスルというマンションに二人で暮らしていた過去がある。久しぶりに浅草を訪れると、浅草観音裏のひさご通りの路上で街娼の女性に出会う。藍は、路上の街娼に5000円札をあげていた亡き祖母トシのことを思い出してミチコ姐さんと名乗るその女性に5000円を渡し、30年ぶりに浅草キャッスルに向かった。すると、突然開いた浅草キャッスルのドアから顔をのぞかせたのは死んだはずのトシだった。
浅草観音裏に現れる路上の街娼ミチコ姐さんをイニュシエーターとして、藍は亡き祖母のトシと、浅草で共に過ごしたかった時間の続きを生きる。トシと街娼のミチコ姐さんの語りを通じて、東北から浅草に流れてきた女性たちの語られなかった歴史が立ち現れる。
一方、吉原のマッサージ店で働き、赤ん坊を死なせてしまった若い女性の七海のカウンセリングで、藍は東北出身の女性たちの集合的記憶に出会う。七海は、東日本大震災、福島第一原発事故のあとに上野、浅草に流れてきた女性だった。
〈作品執筆の背景と問題意識〉
作品制作の動機は、浅草の旧遊郭・新吉原周辺の女性たちが、トラウマとスティグマにより語れなかった記憶、歴史、現在性をフィクションとして蘇生し記録する試みである。
調査は、関東大震災、満州事変、昭和恐慌、東北大凶作を経て、東京にやってきた「東北の女の子」たちの集合的記憶、公娼制度、戦中の南洋の日本人女性たち、語れずに逝った日本人の日本軍「慰安婦」、戦後の赤線地帯、売春防止法施行後の昭和の吉原の記憶、現在、災害や貧困が女性たちにめぐり合わせる事件、困難に接近することになった。
地域やある階層のもつ集合的歴史、個人の記憶のもつトラウマから零れ落ちるスレイブ・ナラティブ、サバイバーズ・ナラティブ。聴かれず、語られずにいた声をフィクションの力で立ち上げ、物語化する、記憶、歴史への文芸的試みである。
中村純 飛鳥純
(大学院)文芸領域
出版編集者、詩人として35年ほど活動をしてきました。
詩の器では書ききれないことを小説に試みるために、現職教員でありながら大学院に入学するという蛮勇! 当初、教員なのにボコボコにされました(笑)。AIが書くことと異なり、生身の人間が書くということは、書かざるを得ないことを胸の奥深くに抱いていて、生きるために思考し、生ききるために書く、ということだと思います。
これからも、フィクションでしか書けない真実にたどり着くための旅を続けていきます。
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