刺繍におけるルネサンス
−細密技法オール・ヌエの〈うつし〉を通じた解明とその継承に向けた考察−
(大学院)工芸デザイン分野 杉浦 今日子 (Kyoko SUGIURA)
領域長賞
本論は、ルネサンス期にヨーロッパで高度な技術として発展し、18 世紀にほぼ消滅した刺繍技法「Or nué(オール・ヌエ)」について、この技法の解明と失われた手業を継承する意義について考察を試みたものである。まず、文献調査で歴史を紐解き、また現存作品を所蔵する美術館に赴き実見をした上で、目視で素材や技法についての検証を行った。以上を踏まえた上で、国際的にも重要な刺繍作品と認められているウィーン王宮宝物館所蔵の《聖母マリアのコープ》内の図像「聖アポロニア」を複製した。
オール・ヌエは、西ヨーロッパで中世末期に登場し、15-16世紀にかけて大きく発展した刺繍技法である。光の加減や色のニュアンスによって絵画的な効果を現す技法であり、絵具の代わりに糸で描いた絵画と言えるほど写実的な表現が可能である。美しいグラデーションが表現に立体感を与え、さらに彩色絹糸の間から金の輝きが見え隠れする様は、天から舞い降りる太陽の光を絵の中にちりばめたようで、当時の人びとが神秘的な力をその光の中に見いだしたであろうと想像できる。
この技法には、①金糸を並行に並べ、②その金糸を2本ずつ彩色絹糸で縫い留める、というたった2つの工程のみしかないのだが、制作には膨大な時間と忍耐力、知性を必要とする。16世紀のパリの刺繍職人規約(註1)では、親方になるためには、この技法で作品を制作することが必須とされていた。当該時代、すでにさまざまな刺繍技法があった中でも、オール・ヌエが特別に重要視されていた証拠である。
しかし、現代においてはごく一部の専門家のみが知る技法となっている。ヨーロッパの刺繍の歴史を語る上で、書籍や論文内でその名前が語られることはあるが、実際にルネサンス期と同等レベルで現代に制作された作品は存在しない。先行文献や刺繍技術書内で「非常に高度な技法」と記述される中で、語られている図案の転写方法や作業工程は曖昧であり、その作品自体の卓越性も分かりづらい。そこで、制作者の立場から技法の解明と理解を試みるために現存作品の複製を実践した。
複製に当たり、論文内では〈うつし〉という言葉を用い、過去の技法を単に再現するのではなく、元来の制作者の創造と思考を追体験しながら、複製者(筆者)のフィルターを通じて対話するように〈うつしとる〉ことを心がけた上で制作を行った。当該時代に使用されたであろう本金糸と不撚の彩色絹糸を用い、実践の中では技法の解明と、長時間に渡る制作過程の中で、手と精神がどのような対話を行っているかをつぶさに観察・記録し、制作者の思考の動きを辿った。
オール・ヌエの先行研究においては、会計記録などの文書から読み解いた歴史的な背景や、現存作品から見られる事実(修復を含む)の記述にとどまっていた。ヨーロッパにおいては中世期から刺繍工房が存在していたことが明らかになっているが、技法の伝達は工房内で親方と師弟の間で行われ、明文化されることは無かった(註2)ことから、オール・ヌエのような失われた技法において、実際にはどのような手順で制作が行われ、どのくらいの技術を要したのかを明確に知ることは困難であった。本研究での〈うつし〉の実践は、先行研究で語られていたことを裏付けると共に、技法そのものをより深く解明することとなったのではないかと考える。
制作工程については、本論内でひとつの実践的方法を提案することができ、オール・ヌエが非常に高度な技術を要する技法だということが現実的に立証できたと考える。また、当時の刺繍家には、技術的スキルと芸術的スキルの両方が備わっていることが必要であったということも重要な解明であったであろう。刺繍家は図案の通りに刺すばかりでなく、「糸の画家」としての芸術的繊細さを持って仕事をしていたのだ。
また、〈うつし〉の実践から、手を動かすことでの手の認識と身体に蓄積される「身体の理解/身体の知性」が技法の理解において重要であると実感した。オール・ヌエばかりでなく、高度な刺繍技法を語る上でより理解を深めるために、制作者による〈うつし〉の実践を提案したい。また、研究者と刺繍家が協働で学術研究にあたることも、研究の対象となる作品をより深く理解するために有効な手段であると考える。
オール・ヌエに関しては、使用素材が高価な上に入手困難であることと膨大な制作時間を要することから、今後再び恒常的に実践されることはまず無いと言っていいだろう。その意味で、現存作品は非常に重要で有効な歴史の証人であり、私たちはそこから人類の歴史における価値を知り、高度な手業が成し得た社会的影響の重要性と、人間の手が成し得る可能性を読み取ることができる。それは、未来に生きる制作者に示唆を与えることとなるだろう。
ひとつ確かに言えることは、どんなにデジタル化が進んでも、人は手でものを作ることを続けて行くということだ。それは私たちの手が「身体の理解/身体の知性」の重要性をすでに知っているからに他ならない。素材が代わり、技法が変わっても、手でものを作る精神は受け継がれ、失われた手業はものづくりの精神の中に存在し続けていくのだ。
註1. René de Lespinasse(ルネ・ド・レピナス)、Les métiers et corporations de la ville de Paris(パリ市の職業と同業組合)、1892、p162, P174 出典:gallica.bnf.fr / Bibliothèque nationale de France(フランス国立図書館)
註2. Kay Staniland, Medieval Craftsmen Embroiderers, London, British Museum Press, 1991, P7.P13.
画像キャプション
1.メイン画像 : 技法研究に基づく複製刺繍オール・ヌエ〈うつし〉部分、⾦⽺⽑騎⼠団《聖⺟マリアのコープ》の図像「聖アポロニア」を参照、原作所蔵:ウィーン王宮宝物館、複製制作;杉浦今日子、刺繍、本金糸・釜糸・リネン、28.6 x 12.0(cm)、2025、©Takeshi Sugiura
2. Embroidery reproduction based on technical research, Referencing the figure of Saint Apollonia from the Cope of the Virgin Mary of the Order of the Gloden Fleece, Original object held at the Imperial Treasury, Vienna / 技法研究に基づく複製刺繍〈うつし〉、⾦⽺⽑騎⼠団《聖⺟マリアのコープ》の図像「聖アポロニア」を参照、原作所蔵:ウィーン王宮宝物館、複製制作;杉浦今日子、2025、刺繍、本金糸・釜糸・リネン、28.6 x 12.0(cm)、©Takeshi Sugiura
3. Pluvial[Cope of the Virgin Mary](聖母マリアのコープ)、刺繍、 ブルゴーニュ、制作時期1425-1440 、The Imperial Treasury Vienna(ウィーン王宮宝物館)所蔵、展示作品、©Takeshi Sugiura
4. The figure of Saint Apollonia from the Pluvial[Cope of the Virgin Mary](聖母マリアのコープ内図像「聖アポロニア」)、刺繍、 ブルゴーニュ、制作時期1425-1440 、The Imperial Treasury Vienna(ウィーン王宮宝物館)所蔵、展示作品、©Takeshi Sugiura
画像2:説明は本文末尾に記載
画像3:説明は本文末尾に記載
画像4:説明は本文末尾に記載
オール・ヌエ〈うつし〉使用素材、釜糸・3掛本金糸・絹綴じ糸、©Takeshi Sugiura
オール・ヌエ〈うつし〉制作過程、©Kyoko Sugiura
オール・ヌエ〈うつし〉制作風景
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